役を演じる

小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』を読んでいる。

ゴッホとかドガとかピカソとかにも言えることなのだけど、才能に秀でた人は普通には生きられないものなのかなあと思う。

いわゆる神経症的な人たちなのだろうと思う。近くにいる人たち、大変だっただろうと思う。

 

ドストエフスキーの借金の仕方はものすごくて、笑えてしまう。

奮起して立ち上げた雑誌社が倒産しかけて、ドストエフスキーの原稿でなんとか稼ごうと苦心している兄に、

次から次へと無心をして、挙句に原稿も書かずに海外に旅立って、ルーレット賭博ですべて無くして、それでも懲りずに貸してくれと手紙で泣きつく。

もちろん出版社からの前借りも当たり前。借金のせいで数少ない友人を失ってもいる。

 

出版社からの前借りで生活していた中村うさぎは、自分のことを太宰治に似ていると書いていたが、ドストエフスキーに似ているのだ。

彼女の買い物依存症者としての記録も、恐ろしいほど臨場感がある。

 

稀に見る才能というのは多分、そういう生きにくさの中でなんとか生き延びるために、代替器官を鍛える手段として磨かれていったのだろうなと思う。

平凡な私が、身に余るような才能も、身に余るような栄光も、手にできるはずがない。

何かの能力を伸ばそうと思うのなら、地道にお稽古するしかない。

 

 

私が地道に訓練してきたことといえば、しかし、物語に耽溺することかもしれない。

本の中で、違う人生をいくつもいくつも辿ることが好きだ。

作者の人生を辿ってみることが好きだ。

私の耽溺の仕方は偏っているので、そのままでは役には立たないが、

アドラー心理学を学んだおかげで、物語の読み方がわかってきたので、

やっとそのお稽古の成果が、カウンセリングなどに生かせるようになってきたのかもしれない。

私は積極的に働きかけなくても、物語を読むことで、お役に立てるのかもしれない。

 

 

自助グループで一緒に学んでいるメンバーさんの子どもさんが、他のメンバーさんへと書いたお手紙を預かった。

お渡ししたら、とても喜んでおられて、

後日そのメンバーさんがその子どもさんへ書いたお手紙を、また預かって、

その子どもさんにお渡しした。

私を通して手紙が行き来した。詳しい内容は知らない。

ただ、封筒を手にしたふたりのこぼれそうな笑顔を見た。

何の取り柄もない私でも、いいんだなと思う。

私を使ってくださったのだ。

そして、そうやって、ちょっと所属に困っていた時期もあったその子に、確かな居場所があることを、その居場所に貢献して所属していけることを、周りのみんなが感じられた。

その子の思いやりが、私たちを幸せにしてくれた。

 

 

私には何もないけれど、私がアドラーの思想を伝えて、あるいは、私が人と人とを結び付けて、

そうやってお役に立つことはできるのかなと思えた。

私自身が不器用にお稽古をしているうちに、周りの仲間たちがそれを見て、私よりも上手になっていけばいい。

私自身が私の理想に到達できなくても、もっと賢い人たちが、もっと優れた人たちが、同じ目標に向かって共に進んでくれたらいいのだ。

そうやって仲間の輪が広がれば、この灯は消えることがない。

 

こう考えてしまうと、バカで不器用であるという私の劣等感が、何かかけがえのないことに思えてくる。

私は無理に話す必要もない。

黙って物語に耳を傾けていよう。

私が語るべき台詞がめぐってきたら、私はいつだってその役を演じることができる。

何者かになりたかった私は、何者でもないからこそ、何者にでもなれるんだ。

その時とその場に合わせて、必要な役を果たしていこう。