正しい選択

冷たい雨が降るごとに、冬の空気が濃くなっていく。

珍しく今日は、ぽっかり空いた休日。

 

1年前のことを思い出す。

生活の糧をどう得ることができるのか目処が立たず、

つてを頼ろうとしてみたり、ハローワークに通ってみたり、資格試験の勉強を始めてみたり。

通帳の金額がどんどん減っていって、温度計の目盛りがどんどん下がっていくことがやり切れなかったな。

ドストエフスキーチェーホフを初めて読んでみたのだった。

それから精神科医で小説家の加賀乙彦の本も読んだ。

いちいち、私の選択は正しかったなあと思う。

 

お金のことを第一に考えて短期バイトとかしてみたとしたら、

それはそれで多分楽しかったと思うし、それなりに役に立てただろうけれど、

私は自分の活かせる場所を探そうとしていた。

流れ着いた結果、想定外すぎる今の職場で得難い修行をさせてもらっている。

 

あの懐寒く心細い冬を体験したことは、この施設に暮らす人々への理解を、少しばかり手伝ってくれているような気がする。

福祉に頼ろうと決めることも、福祉に頼らないでいようと決めることも、どちらも大きな決断だ。

そんな選択を迫られている時点で、真っ当な大人から外れているような気分になる。

この施設に入所した時点で、相当なプライドを捨てるなり傷つけられるなりという体験をしておられるのだ。

そのことを忘れていた。

 

 

資格試験は、学科試験に合格することができた。

来週末の実技試験に合格すれば、資格取得を決めてから1年で達成できたことになる。

雪の降る中自動車教習所にも通って、今では人さまを乗せて走っているし、

努力したことが実を結んでいる。

嫌なこと苦手なことでも、目の前のことをひとつずつこなしていけば進んで行けるらしい。

嫌なこと苦手なことはとても多いけれど、こなしていくことにあまりエネルギーが要らなくなってきたように思う。

私自身、とても生きやすくなってきたと感じる。

やっと一人前になれただろうか。

 

 

 

 

今日はコーラスサークルのクリスマスコンサートだった。

幼稚園の子どもたちの前で歌うことができた。

手拍子してくれたり一緒に歌ってくれたり、楽しんでくれてとても嬉しかった。

音楽によって私たちはひとつになっていた。

それが多分私の理想とするところで、

そんな瞬間を味わうために、私は進んで行くんだろう。

 

この教会で賛美歌を響かせることが心地よい。

私は仏教徒だけど、救い主を待ち望んでいた人々に思いを馳せることはできる。

 

仲間たちと歌い、コンサートを作り上げる場があって、私はとても救われている。

オンラインで自助グループで、アドラー心理学を共に学ぶ仲間たちと同じように、

私にとって必要な場所なのだとあらためて思った。

ただ楽しいからというだけではないのだ。

私の声が私のものでなくなり、みんなの声に溶けてひとつになれるから、

それが私の理想とする私の所属の仕方なのだろうと思う。

本当はね、言葉もいらないんだろう。

何も言わなくても、ひとつであるという感じに浸っていたいのだろう。

なんだ、父にも似ているんだ、私は。

 

 

 

 

結局、甘やかされた子どもであった私の理想はどこまでも甘くって

世俗を生き抜いていくのに本気になっていると疲れてしまうんだろう。

歌いながら、物語を読みながら、物語を描きながら、

浮世離れした幸せに浸るのだ。

そういう居場所があるから、よかった。

これからもふわふわと、世の中をついでのように生きていくだろう。

 

ガッツを持って世俗をサバイブしていく施設で出会う人々を、心から尊敬する。

その人々の苦しさを、深刻にではなく、物語として真剣に受け止めて、

より良い物語を私との間にどうにか作っていこうとしているから、

私は多分傷ついたり悩んだりすることはない。

小さな小さな楽しみを喜びを見出す子どもじみた私は、

真っ当な大人が当たり前にできることを苦労しても当たり前にできない私は、

話を聴いて味わうだけで、良いアドバイスができない私は、

多分施設の人々にとって緩和剤になっているだろう。

 

だから、私は真っ当な大人でなくてよかったと思う。

 

 

小石

私が少し落ち込んでいたりするとすぐに気づいてくれる友だち。

離れていても、メールでも、電話でも、あるいはこのブログでも、

私の様子を気にかけ、思ってくれているのがとても嬉しい。

そしてそんな友だちが、私には本当にたくさんたくさんいてくれる。

 

 

職場ではどうしようもないことが続いていて

ささやかなやり取りに幸せを感じやすくなっている。

ささやかなあたたかいやり取りを重ねていくことしか、今の私にはできない。

 

「今の私にはできない」って、私がよく使う言葉だ。

これは、私がいずれもっと能力が高くなってもっと成長して、

「いつかの私ならできる」という未来を前提とした物言いだ。

でも、今の私にもできなければ、未来の私にもきっとできないだろう。

このどうしようもない事態を打破することは。

 

私は、落ち込んではいる。

でも、この陰性感情は怒りではない。悲しみだ。

とても静かだ。

 

人を変えることはできない。

理想の行動を人にさせることはできない。

それをさせようとしているとき、既に私は自分のことを考えている。

 

 

 

やんちゃな幼い男の子たちを、どうにかして言うことを聞かさなければとみんなが相談していた。

このままでは本当に困る。我々も困るけれど、本人が周りに適応できなくなっていく。

だからもっともっと、しつこく言い続けなければいけないですね。

でもダメって言うたびに、ニヤッと笑って、余計にひどくし続けますよねあの子たちは。

そうなんですよ、絶対に言うことと反対のことするんですから。

どうしたらいいんでしょうね。

でも知能は結構高いですよね。

そう、よくわかってますよ。どうしたらいいんでしょう。

繰り返し繰り返し言い続けるしかないですよね。

私はひとり黙って、ため息を隠していた。

そうやって不適切な行動に注目関心を与えていたら、

もっともっと彼らの不適切な行動はエスカレートしていく。

彼らはいい子なんだって信じて、きちんと話し合えば協力してくれる仲間だって信じて、

彼らのいいところを探し続けて伝え続けなければ、この悪循環は回り続ける。

その仕組みを私は知っているけれど、言えなかった。

 

 

不登校を続けている思春期の女の子たちを、どうにかして学校に行かせなければとみんなが相談していた。

どれだけ内線かけても出ないってどういうことなんでしょうね。

部屋に行ってベル鳴らしても反応がないし。ドアを開けて声かけても反応ないし。

入るよって言ったら入ってくんなって言うし。枕元まで行ったけど布団かぶって起きないし。

入ってくんな、うるさいって言うし。

一度で内線に出ないからでしょって言ったけど、全然布団から出てこないです。

ほんと、どうしたらいいんでしょうね。

何回も何回も言い続けるしかないですよね。

この悪循環はもう加速度を増すばかりで、弾け飛んでしまいそうだ。

でも私はひとり黙って、ため息を隠していた。

 

職場のみんながどれほどの大きな愛情を持っているかは、十分わかっている。

でもこの方法では、事態は悪化する一方だ。

今まで、どうやってきたんだろう。

これでうまくいったことがあったんだろうか。子どもたちの方が負けていたのだろうか。

何かの拍子に、あるいは時間の力で、子どもたちが成長して悪循環が断ち切られたのだろうか。

 

 

 

 

…肝心なことは書いていない。

 

 

 

 

こちらが正しくてあちらが間違い、悪いという構えでいると、決して対等で平等な横の関係は、協力し合う関係は作ることができない。

だから私は、職場のみんなのことを裁いていては、始めることができない。

だから私は、感情を動かさない事務的なことでしかみんなと協力ができていないのだろう。

 

全てが全てではない。

本当にあたたかい勇気づけをしている職員さんもいる。

素敵だなと思うこともたくさんある。

でも、それは、とても良い子たちに対してだ。

それはもちろん悪くなんてない。

でも、不適切な行動をしなければ所属できないって思い込んでいる「悪い子」たちにも、あたたかい勇気づけが必要だ。

 

 

私がほんの小さな勇気づけをしたことを、私は友だちに話す。

それは素敵だねと言ってもらうことで、こうやって自分にできることを重ねていこうって思える。

表情が和らぎ、強張っていた体から力が抜け、じゃあやってみようかなって言われる。

そういう変化が起こった瞬間だけは、私はその相手と手を繋いで平等の平面に立っていられたんだと思う。

それがどんなに不適切な行動をしている相手であっても、私は相手を裁かない限り、協力することができると、

信じてみたい。

まだ些細なことでしかできないけれど。

 

ああ、また私は「まだ」なんて言葉を使っている。

これからもっとできるようになるっていう前提があるようだが

そんなことはないんだ。

私がどれほど知識を身につけ技術を磨き人格を高めたとしても、どれほど祈っても、

彼女たちは子どもたちを酷い目に遭わせ続けるだろう。

子どもたちは不適切な行動をし続けるだろう。

職員は逆効果な働きかけをし続けるだろう。

そうやってみんなで悪循環の輪を回し続けるだろう。

 

私はその回転の中に佇みながら、小石にぶつかって軌道が変わるような、そんな機会をうかがおう。

私にできることは、私のすべきことは、

相手の良いところを見つけて、伝え続けることだ。

私はあなたの味方でいるよと心から思いながら。

相手と共に今ここに生きていることを、喜ぶことだ。

他に私にできることがあれば、どうか教えてほしい。

 

いばら道 

木々がざわざわ揺れている。

妙に暖かく、風が強い。

今日も今日とて波乱の日だった。

 

「虚しく思えてしまうこともあるけど、我々は決してあきらめずにやっていきましょう。」

ミーティングで、いつもは明るい上司が、沈んだ様子で自分に言い聞かせるように言っておられた。

みんな本当に心を込めて、利用者さんと子どもたちの幸せを願って、働きかけているのだ。

けれども我々の理想は決して実現しない。

 

ひとつひとつ積み上げたものが、やがて全て壊されると知っていながら、積み上げ続ける。

こちらがどれだけ働きかけても、支援は不要だと言われれば、何も手助けすることができない。

役に立つかどうかという視点からは、それは無駄で虚しくなるだろう。

時々、仕事中に、私は一体何をしているのかなあと思うことがある。

私の子どもたちと過ごす週末が私の生きる時間で、職場で私は大いなる暇つぶしをしているんだろうと思ってみたりもする。

 

熱意溢れる職員さんたちは、不適切な行動をする母親たちに対して、もうどうしようもないと思って、陰性感情が抑えきれなくなっていたりする。

確かによくない行動をしている。けれど、行為と人格は別だ。

母自身もサバイバーで、適切な行動を知らなかったり、適切な行動をしたり適切な選択肢を選んだりする勇気が持てないでいるのだ。

子どものためという言葉が意味するものが全て自分のためであったりしても、過剰に良い母親を演じてみせていても、

彼女たちは自分を認めてもらいたがっていて、誰かを傷つけるために不適切な行動をしているのではないのだと、

必死の適応努力でよくないことを引き起こしている「かのように」思って、彼女たちに向き合い続けたいと思う。

 

彼女たちには友だちもほとんどいなくて、頼れる親もいなくて、過酷な環境を生き抜いてこられた。

そのことを思うと、よくここまで来れたね、よく今まで生きてこられたね、と思う。

たくさんのストレンクスを活かして、人々と衝突しながら、大変な目に遭いながら、それでも何とかやってこられた。

そのたくさんのストレンクスを、もっと世の中に貢献的に活かすことができればなあと思うけれど、その方法を一緒に見つけられたらいいなと思うけれど、

そんな高望みはしてはいない。

きっと学んではもらえないだろう。

いいのだ。私からそんなことを教わろうなんて思っていないのだから。

 

自分で育てたいばらの藪に突っ込んでいく人生を選んだのは彼女たち。

子どもたちに大変な思いをさせ、全ては元夫のせいだと思い込んで。

でもその人生を救って矯正するなんて、誰にもできない。

彼女たちがいばらを刈ろうと思って手伝いを依頼してくれたら、初めて協力することができる。

 

 

 

私は彼女たちを裁かずにいたい。

逃げて逃げていばらの道に飛び込んでも、人生は簡単には終われないって

多分絶望している彼女たちを、愛(かな)しく思う。

たとえ私が彼女たちの味方になれたとしても、きっと事態は何も変わらない。

でも、彼女たちに雨宿りするぐらいの居場所でもあればと思う。

 

 

雨が降ってきた。木々がざわめく。

どんな日でも、生きていかなきゃいけない。

チェーホフが書いている通りだ。

「ワーニャおじさん、それでも私たち生きていかなきゃいけないのよ。」

一緒にこのろくでもない日々を過ごしていこう。

この時間を空間を共にできること、不思議なご縁だと思う。

出逢ってやがては別れる私たち。虚しすぎるね。

でも生きていくってそういうことなんだろう。

だとすればこの関係の中にも、美しいものがあるはずだ。

 

Do my best , not to be the best

この1週間は、ほぼ毎日友だちや私の子どもたちと過ごす時間があり、オンライン勉強会にもたくさん参加できた。

私がオフの時間に出会う仲間は、アドラー心理学やパセージの考え方を良いと思ってくれている人たちだ。

同じ価値観を持っている人たちだ。

私は母国語で話せているなあと思う。

私の意見を素直に表すことができる。

そして、みんなの話を聴くと、なんて一生懸命に自分のすべきことに取り組み、周りの人々と良い関係を作り、幸せを作っていっているんだろうと感動する。

こんな仲間たちの中に私は所属できているから、私は健康に幸せに生きていられるのだとわかる。

とてもありがたい。

 

仕事はお金を稼ぐための手段であり、母国語の通じない社会でいかに私が私を役に立つよう使うことができるかという修行である。

私のしたいことをするために必要なこと。

そんな風に唾を吐きながらも、楽しいことだって嬉しいことだってたくさんある。

多分、適性があるんだろうと思う。

必要悪としての施設だと思うから、やりがいなんて感じたいとは思わないけれど。

でも、好きになれないなと思っていた職員さんの素敵なところも、見つかってしまった。

一緒のシフトにならなければいいのにと思っていた職員さんとも和やかにお喋りできるようになって、本音やグチを聴かせてもらう場面も増えてきた。

順化してしまっている。

大したエネルギー(緊張)を使わずに運転できるようにもなった。

ここでの一般的な職員の対応に、いちいち感情を動かすことがなくなった。

 

順化してしまっている。

ある面ではいいことでもあるだろう。

緊急事態の日々のこの日常に慣れてしまって、小さな小さな変化に喜びを見出してしまって、

外の世界の当たり前の幸せに触れたとき、ああそうだここは違う世界だったとあらためてびっくりしたりする。

利用者さんたちのことを大切に思い、互いの心が近づいてきた。この特殊な環境で共に生きる仲間になってきた。

しかし、その方たちの問題をその方の「特性」という言葉でその方に帰属させることへの違和感が薄れてきてしまった。

問題は問題。解決すべき課題であり、治療すべきポイントであるという意識が薄れてきているかもしれない。

それはよくないことだと思う。

二重見当識を保たねばならない。

 

 

 

例の如く、具体的なことが書けないのだが…

数週間前、ある利用者さんに大変なことがあって、あるベテラン職員さんもひじょうにテンパってしまって、

でも私が話を聴かなきゃいけないから!と、自分を奮い立たせていたことがあった。

今は危機介入をすべきタイミングだが、この職員さんは大丈夫かな?利用者さんにとって援助的な働きかけができるかな?と、私は不安になった。

職員の対応によって、利用者さんの感情がより乱れてしまうのは危険である。

ただ、ベテラン職員さんを差し置いて、私が話を聴きに行きますと言うことは私にはできなかった。

そこで、その職員さんが席を外した少しの間に、こっそりと上司に私の不安を伝えた。

その上司だけには、私はアドラーの話や物語についてを話すことができていて、

上司は「Mさんの意見や見解を他の職員にも広く伝えてほしいです。私自身はとても勉強になるし助かっているから」、と言ってくださる方だ。

上司の判断で、よければ私を行かせてくださいと伝えた。私は感情を落ち着かせる対処はできますから、と。

上司は、ありがとうございますと言ってくださったが、ベテラン職員さんが対応をされた。

結局、その利用者さんはより大変な事態になるということはなく、気丈に振る舞っておられた。

 

先日、久しぶりに上司とふたりっきりの時間ができたので、その日のことについて話をした。

「ベテラン職員さんが不安だから私が行きます、と差し出がましいことを言ってすみませんでした。テンパっておられたけど、技術的なところがどうこうではなくて、あの愛情たっぷりの、懐の深いお母ちゃんとしての職員さんたちによって、この施設は成り立っているものがあるんだなって学びました。」

「いいえ。それは、そう。そうなんだけどね、それだけではダメなんです。

本当に、そういう、可愛い可愛い、よしよし、私たちがどうにかしてあげるっていうだけでは絶対にダメで、専門的なところも両方必要なんです。

でもどうしても、おばあちゃん的立場というか、ここはそういう方に傾きがちなんですよ。今も実際、そっちに傾いてます。」

「そうなんですね。うーん…。確かに、Zちゃんへの対応で、お母さんが落ち込んでしまったことがありましたね。」

「あれは本当に、いけなかったですね。後で言いましたけどね、指摘するまであの職員さんはどういうことが起こっていたのか、気づいておられなかったです。

私がここに入った時は、今よりもっともっとお母ちゃん!なベテラン職員さんが多かったんですよ。専門的なこととか私らわからんけどいいの、我が娘のように可愛い、なんでもやってあげるからっていう感じのね。私は、へーって圧倒されてたんだけど。

でも私も上司に、ある利用者さんについて、入り込みすぎだってすごく怒られたんですよ。ちゃんとわかってます、私は分けれてますって言ったけど。

わかっていない、おかしいよそれは。入り込みすぎだ、普通の関係じゃない、あなたなしでいられなくなってしまっているでしょう、それは危ないですって。

怒られてもなかなか私はわからなかったんですけどね。なんとかしてあげたいっていう気持ちが先走りすぎていましたね。でも、その利用者さんは…やっぱり他の方とはちょっと違ったっていうのはあるんだけど。」

上司は一瞬、私を置いて回想の中へ還られた。少し目が潤んでいた。

 

 

今、困ったちゃんの利用者さんたちに対して、あたたかく受け止めながらも、優しくきっぱりとすべきことすべきでないことを話していかれる上司にも、ここに至るまで多くの失敗があったのだと知った。

「失敗しても私たち上席者がなんとかできるから、Mさんのいいと思うことを色々試してみてほしいです。利用者さんたちのこと、ほんとによく見ておられると思いますよ。大丈夫です。」と先日言ってくださったことも、これまでの上司がこの上司を育ててこられたからなんだと感じた。

 

この上司について、他の全ての職員さんたちと違うなと感じるところは、

肚の座り具合なんだろうと思う。

キラキラ輝いている目は、他の多くの職員さんたちも同じ目をしている。

でも、判断するときに無難な道、事なかれな道を選ぶことが最善とされやすい、市や県が措置元となる施設に居りながら、

利用者さんのために思い切ったぶれない決断ができるのは、この方のおかげだと思う。

 

 

この上司のもとで、いや、たとえこの上司が去ってしまったとしても、

私は全く異質の存在として、ひとり、美しい物語を描き続けてみようと思う。

そうしながら、ひとりひとりの心が健康になれるように、治療という視点から関わってみようと思う。

砂漠に水を撒くような、波打ち際に城を作るような、そんな環境だけれど、

それは他の職員さんの対応が砂嵐だったり波だったりすることも多いのだけれど、

でも、だからといって、私がすべきことに変わりはないのだから。

 

 

ということは、

私はまだ、世界を変えようとしているんだろうな。

私の子どもたちへのこの一言がこのまなざしが、世界を変えるなんて。

でも、私の仲間たちが先生方が幼い頃の私の子どもたちへ撒いてくださった種が、今十分に花を咲かせていることを感じているから、

私は絶望することができない。

 

汚泥の上澄みを愛でるような毎日だ。

だけど、状況は変わらなくても、物語は変えられるから。

私は私のすべきことをしよう。

 

 

回路

心地よい疲労感を味わっている。

今日は13時半から17時まで、ずっと子どもたちと遊んでいた。

砂場で遊んだりサッカーしたり鬼ごっこをしたり、秋晴れの下で走り回った。

 

外遊びのときは6歳〜8歳の5人、NくんもSちゃんも一緒だった。

砂場では不穏なことも多少あったが、

ごっこは、誰も「Nくんが〜してる!ダメだよ!」「Sちゃんやめてよ!」と言うことなく、

みんなで仲良く遊べてとても嬉しかった。

誰が言い出したのか、今日したのはゾンビ鬼ごっこというもので、鬼はゾンビの格好をして追いかける 笑

本当は鬼に捕まった人もゾンビになって、鬼が増えていくというルールなんだろうけど、どうもうまくはいかなかった。

みんなで私を鬼にしようと作戦を練ったりするから、

私も結構ちゃんと走ったり、待ち伏せしたりして、

みんなはキャアキャア悲鳴を上げて走っていた。

隣でサッカーしていた中学生が「Mさんめっちゃ走らされてるな」と笑っていた。

最後の方はわけがわからなくなって、みんながゾンビになって私にまとわりついてきて、

「ゾンビの世界に連れていくぞ〜」と倉庫の裏に連れて行かれた。

 

遊びを作れる子たちだ。仲間を作れる子たちだ。

素敵だなと思う。生きていく力が十分にあると思う。

どうかこのまま、この素晴らしい能力を忘れないでいてほしい。

だからできる限り、私も一緒に遊ぼうと思う。

 

 

 

不適切な行動をして「悪い子」として所属しようとする子たちがいる。

Nくんとか、Lくんとか、Sちゃんとか。

過保護過干渉な育児を良いと思っている人々は、必ず、絶対に、例外なく、不適切な行動に注目関心を与えるから

子どもたちは注目関心が欲しくなったとき、そのサイクルのスイッチを押す。

極めて簡単なことだ。

大きな声で叫んだり、誰かを叩いたり、したらダメと言われていることをしてみたりすればいいだけなのだから。

 

他の職員さんたちがひっきりなしに不適切な行動に負の注目をしまくって、感情的になっているのを

私は傍観する。

権力争いが勃発する。

子どもによって、権力争いで優位に立つためによく使う手段は異なる。

嘘をついて誤魔化したり、イヤだイヤだと泣き叫んだり、叩いたり蹴ったり、黙って不適切な行動をし続けたり。

「うるさい!」と大抵の子が言う。

「やめないからうるさく言うんだが!すぐにやめたらうるさく言わないよ!」

双方がどんどん声を大きくする。どんどん「やめなさい」と言う職員が群がってくる。

そして子どもが負ける。

「はい、わかったね。今度からはやめんさいよ。」

職員さんたちは、これでおしまいね、と優しく言って、抱っこしたり、お菓子食べる?テレビ見る?って聞いたり、

全てが同じ手順を踏んで、収められる。

まるで儀式のように。

そしてまた次の日も同じことが繰り返される。

それは当然だ。だって子どもたちは、注目関心が欲しいのだから。

 

この対応は、しかし、ごくごく一般的なものなのだろう。

子どもたちも慣れ切ってしまっている。

だから、不適切な行動ではなく失敗をしてしまったとき、素早く逃げたり、嘘や言い訳をいつも以上に重ねたり、より寡黙になったりする。

何が起こったのか知りたい私たちが、怒るに決まってると思い込んでいるから。

わざとじゃなかったという自分の言い分を、誰も信じてはくれないと思い込んでいるから。

そうすると、問題を解決することがどんどん困難になってしまう。

そんな悪循環がくるくると回り続けている。

 

 

☆☆☆☆☆

 

トラブルが私の目の前で起こるときは、ラッキーだと思っていいのかもしれない。

私が対応することができるから。

 

Lくん4歳が振り回していたバドミントンのラケットが、お兄ちゃんのNくんの顔に当たってしまって、Nくんが痛い!と泣いたことがあった。

Lくんに他意はない。全くの事故だ。

けれどLくんは慌ててラケットを放り出して、滑り台の上へ逃げた。

それが16:59のこと。さあ、みんな家に入らなければならない。

しかしその日は外にいる職員が私1人で、事務室には電話対応中の職員が1人だけ。

小学生未満の子どもからは目を離さないようにという業務命令がある。

ヘルプを求めることのできなかった私は、泣いているNくんの状態を確認し、一緒に目の周りを冷やそうね、先に事務室に行っていてくれる?と頼み、

滑り台の上のLくんに建物内に入るよう声をかけた。

Nくんはうなずいて、建物内に小走りで入っていった。

 

Lくんはイヤだ!と言って滑り台から降りようとしない。

怯えている子犬のようだ。私は君を怒るつもりもないし、傷つけることもないのに。

「行こう、もうお家に帰る時間だから。抱っこでお家まで行こう。」

事務室の方を見るがNくんの姿が見えない。焦る私。

でも、陰性感情を使ってはいけない。Lくんがより頑なになってしまう。

私が怒るつもりがないことが伝わったのだろうか、Lくんは滑り台から滑り降りて、「抱っこ」と両手を広げてくれた。

「よーしお家に帰ろう!」ほっとして玄関に向かった。

「お靴脱げるかな?」「うん。」「降りてもらっていい?」「うん。」

Lくん、とっても協力的。ありがたい。

靴をしまって、もう一度「抱っこ」と両手を広げた。

 

抱っこして、Nくんを探すが見当たらない。

事務室の職員さんに聞いても見ていないと言う。

お母さんに電話をかけて確認すると、帰っていますよとのこと。

今からLくんを連れて上がりますと伝え、急いでLくんと家へ向かった。

「ねえLくん、Lくんが滑り台から降りないって言っている間に、Nくんは痛いままひとりでお家に行っちゃったみたい。一緒に冷やして痛いの取ろうねって言ってたんだけど。帰ろうと言ったときは、お願いだからすぐに帰ってちょうだい。もっと早くにLくんが帰ってくれていたら、私Nくんと一緒にいれたんだよ。1人で痛い思いしてお家に帰るの、Lくんはどう思う?」

私は陰性感情を使ってしまった。怒りではない。悲しみを使ってしまった。

「うん…」とLくんは目を伏せた。

 

お母さんに「Lくんが遊んでいたラケットがNくんに当たってしまって…」と事情を話すと、

「ああ、それでしょんぼりして帰って来たんですね。今トイレに閉じこもってます。」と言われた。

保冷剤がないと言われたので、持って上がることを伝えて、退室しようとした。

「じゃあねLくん。手離してくれる?」

「イヤだ」

「すぐに戻ってくるよ。」

「イヤだ」

「…じゃあ、一緒に取りに行く?」

「うん!」

「わかった。」Lくんと手をつないで、階段を降りた。

 

「一緒に来てくれて、ありがとう。」

「うん。」

「ねえ、Lくんがわざとぶつけたんじゃないの知ってるよ。」

「うん。」

「仕方ないことだったのわかってるよ。だからLくんを怒ったり、しないよ。」

「うん。」ほっとしたように、Lくんは笑った。

「だからママにもそういう風にお話ししたでしょ?」

「うん。よかった。」

「Lくんがいい子なの知ってるよ。」私は頭をなぜた。

「うん。」Lくんは眩しそうにまばたきをした。

保冷剤を持って、またふたりで階段を上がった。

「わざとじゃなくても、痛い思いさせちゃったらどうしたらいいか知ってる?」

「…」

「そういうときは、ごめんねって言うんだよ。」

「…」口を一文字にくくって、私の目を見つめた。

うん、きっと伝わっている。きっとわかってくれた。

でも、ごめんねって言うの、すごく勇気のいることだよね。

 

Nくんはトイレから出てきていた。

しゅんとしていたけど、さっきは一緒にお家まで帰れなくてごめんねと言うと、うん、と笑顔で返事をしてくれた。

お大事に、また明日ねと言って退室しようとすると、Lくんがバイバイと笑顔で見送ってくれた。

 

 

NくんもLくんも、とてもとてもいい子だ。とてもとても優しい子だ。

だけど、いい子であるところをうまく活かせていない。

やんちゃで、悪いことばかりして、困った子たちだと思われがちだ。

でも彼らの引き起こす大変なことは、よく観察しているとはじめは失敗だったり、それが不適切な行動だと知らない場合だったりすることがほとんどだ。

「またNくんがLくんが悪いこと始めたな」という他者の陰性感情がきっかけで、不適切な行動をするぞモードに切り替わるようだ。

…私はそれがとても悲しい。

 

私が触れているのは、この世界のほんの一部だ。

だからきっと、NくんやLくんのような子どもたちはたくさんいるのだろう。

そのうち、自分は適切な行動で貢献的に所属することはできないんだ、という思い込みを持って

非行や犯罪に走る子どもたちが、そんな子たちの中から出てくるのだろう。

良かれと思って繰り返す大人たちの対応が、きっと子どもたちの勇気をくじいている。

 

だって私がNくんやLくんだったら、

自分がいいことをしても誰も気づいてくれなくて、失敗したときやちょっといたずらしたときだけ目ざとく見つけて小言を言われたりしたら、他の子のしたことも全部またお前だなって言われたりしたら、

そりゃ「うるさい!」って言うだろうし、「イヤだ!」って言うだろうと思う。

そうやっていたら「いつも悪いことばかりする」「迷惑かける子だ」っていう目で見られる。

もういいよ、みんな敵だ!戦ってやる!…って、決心するだろう。

こんなに健康な、キラキラした目の、遊びを作れる、仲間を作れる、素敵な子たちなのに。

 

 

私にできることは?

彼らの良い意図を、いつもいつも、周りに伝え続けることしかない。

私が他の職員さんの対応を傍観しているのはおそらく保身のためだ。

他の職員さんを責めるつもりはない。改心させることは不可能だ。

でも、良い意図があったんですよということを説明すれば、よくわかってくださる方たちだ。

できる限り子どもたちの良いところを見ようと努めておられる方たちだから。

 

失敗については、伝えられることが多い。

でも権力争いになってしまってからでは流れを変えることはなかなか難しいな。

それでも。

私にできることはそれしかないのだから。

ほとんどが無駄な努力だとわかっている。

でも、せめて、私と彼らの間には、信頼し合う関係を築いていきたい。

私はいつでも、彼らの味方でいたい。

 

 

 

雨夜

引っ越して1ヶ月が経って、一昨日ようやく本を全て本棚に収めた。

読んでいない専門書や勉強に必要な本が大半だ。

この古紙の束のために私はかなりのコストをかけている。

この半年間、ほとんど本を開いてもいないというのに。

贅沢なことだ。

でも私の一番大切にしたいことは本を読み、学ぶことなのだ。

それは幼い時から変わっていない。

 

引っ越して1ヶ月が経って、今日ようやく自分で無線ルーターを設置して接続ができた。

やっと高額なオプションサービスを解約できた。

と言っても一筋縄ではいかず、途中でインターネットが使えなくなったり、色々なトラブルがあったのを、

長男と一緒に説明書を読んだり色々試してみたりして、なんとか快適な環境に整えることができた。

10回ぐらいは心折れたかな。

でもインターネットが繋がらなければオンライン勉強会に参加ができないから、長男がいてくれる間に何とかしてしまおうと頑張った。

繋がらなければ死活問題だと思って、ライフラインになっているんだなと思って、あれだけネット環境に感謝をしたというのに、

もうあの必死さを忘れて、私はYouTubeで音楽を聴きながらこうしてブログを書いている。

当たり前のように。

贅沢なことだ。

 

 

本当に私は贅沢な人間だ。

もっと我慢をできていれば、子どもたちとも一緒に暮らしていただろうに。

今晩は後悔を味わっている。

子どもたちが来てくれて楽しく幸せな時間を過ごして、彼らが帰ると

私は寂しさととり残される。

だけどやはり、この生き方を選んでよかったと思う。

理由は様々にあるが、

一番は、私が私の面倒を見ていけるようになったこと。自立し、自分を大切にできるようになったことだ。

 

 

子どもたちはこの生活に十分に慣れたようだ。

長男は受験生。自分でコツコツと勉強を進めている。

絵を書いたりプログラミングでゲームを作ったり、遊んでばかりのように見えるが、勉強もしっかりしている。

彼の父がうるさく言うこともなさそうだ。

私の家にいる間、ほとんどずっとしゃべっているのではないだろうか。

たくさんのことを話してくれる。

あまりにずっと喋り続けているので、私が用事をするときには「ちょっと今は私の頭に入らないからね」と言うこともある。

「いいよ、また話すし、あのね、それでね、」と延々と話す。

私がいいかげんに聴いていても彼は構わないみたいだけど、「あ、それってこの前言ってた本の話?作者一緒だったっけ?」などと私が言うと、

「そうだよ!あれ、お母さんちゃんと聴いてくれてたんだ〜」と感動してくれる。

私はできる限り、君の話を聴いていたいと思う。君とおしゃべりをしていたいと思う。

私と似ているなと思う。

…そういえば私も、母といるときはほとんどずっとしゃべっているような気がする。

 

次男は九九に苦労している。

練習するのが嫌いな彼は、こういう練習量がものをいうことが苦手なのだろう。

お母さん問題出して、と言ってくれるので、喜んで九九の問題を出す。

真面目な彼は、少し間違えただけで「あ〜覚えれてない〜」と悔しがる。

一生懸命覚えようとしていて、素敵だなと思う。

お風呂でもご飯中でも、ふとした瞬間に九九の問題出してって言ってくるのがすごいなと思う。

すぐに泣いたり泣き真似したり機嫌を損ねてわあわあ言ったりするけど、この人は多分ものすごくしっかりしていたい人なんだろう。

できることならばなるべく練習をせずに、良い結果を叩き出したいんだろう。

それも私はよくわかる。

でも私よりずっと要領の良い彼は、楽々こなせているように傍目からは見えてしまうだろう。

涼しい顔を保つために、水面下では結構頑張っているんだなあと思う。

 

お仕事でどんな面白いことがあった?お話して!と次男にせがまれた。

急に小さい子たちが増えてより大変になった毎日のエピソード、喜んで聴いてくれる。

1年生までの子たちを同時に2人ぐらい抱っこしたりおんぶしている話をして、

あ、そうだ、今の私なら多分次男をおんぶとか抱っこできると思うよと言うと、

次男が飛びついてきた。

重かったが、まだ大丈夫だ。抱っこからおんぶへ移動するのを「世界一周〜」と言いながらやっていた。

長男は足のサイズは私より大きくなり、身長も体重も私に迫ってきているので、もう抱っこはできない。

「もうすぐ僕がお母さんを抱っこできるようになるよ」と笑っていた。

 

私が職場の子どもたちと良い関係を作っていることを、

子ども同士が良い関係を作っていっていることを、

彼らはひとつひとつ味わいながら、喜んでくれる。

私と一緒に、子どもたちを可愛いねと愛でてくれる。

子どもたちと関係を作っていくことを、彼らにいつも勇気づけてもらっている。

きっとこれでよかったんだって思えてしまう。

私にはそんな彼らの良いところがはっきりと見える。

彼らといつも良い関係でいたいと思う。

 

 

状況がどうであっても、関係は、変えることができる。

アドラーが、ベイトソンが、教えてくれている。

それは救いだと思う。

 

 

そして私は、いつも幸運にめぐり合う。

子どもたちを通して、パセージを通して出会ったたくさんの大切な友だちが私にはいて、

この小さな町で、もう一度帰ってきたこの町で、予期しない再会を重ねている。

子どもたちの幼稚園でお世話になった先生方にも、

長男の幼稚園時代のお友だちのママ友にも、

他にもたくさんたくさん。

私は環境に恵まれ、その大切な方たちと良い関係を作っていっている。

 

 

時々寂しくなって、後悔に浸りそうになるけれど

落ち着いて考えてみよう。周りを見回してみよう。

私は不運に避けられているようだし、

私を不幸にできるのは私だけだ。

寂しくなった夜、友だちに電話をしなければ押し潰されそうだったのはもう過去のことで、

ああ寂しいなと思いながら、ひとりでゼミの資料を作ったりブログを書いたりできるようになった。

寂しさに浸れるBGMに身を任せることもできる。

今日は休むと決めて、あれこれ言い訳せずに、すべきことを後回しにすることもできる。

ちゃんと自立している。

 

 

この道

最近、少し落ち込んでいた。

どれだけ一生懸命やってみても、ほとんど何も変わらないんだろうと思えて。

私は何の役にも立たないんだなと思えて。

私の働いている施設の利用者さんや子どもたちについて、ひいては、世の中について。

昨晩そんなことをオンライン勉強会で話してみた。

話しているうちに、小さな小さな成長が、良い変化があることを思い出せた。

それは本当に小さな小さなことで、

たとえばかすみ草の花びらのようなもので、誰もそれを花びらとは認められないぐらいの小ささなんだけど

それを泥の中に咲く蓮の花と思っていいのかな、とも思えた。

 

 

今までのたくさんの職員さんたちの支援によって、今の利用者さんたちが少しずつ成長して一歩ずつ良い方向へ歩んできたということが見えてきた。

私の価値観とは違う、私の良いと思う方法とは違う、別の方法で良い成果が得られている部分がある。

しかし私は、過保護過干渉であったり支配的であったりする関係の作り方を採用したくない。

私がアドラー心理学を実践しようとすればするほど、良い職員からは外れていく。

とはいえ、業務上、過保護過干渉な対応をしなければならないことも多々ある。

それに、もちろん、アドラー心理学の実践ということ自体、不十分でもある。

業務を遂行するために、支配性を発揮してしまうこともある。子どもに指摘されてハッとした。

 

 

2歳のAくん。嫌なことは絶対嫌。力も強い。泣き声も大きい。

前庭の太鼓橋をつかんで離れないが、もう居室に入らなければならない17時を過ぎている。

お家に帰ろう、と言っても「なん!」と頑として動かない。

それならばと、「ごめんね、もう帰る時間だからね。また明日遊ぼう。」と言ってAくんを抱っこして手を離そうとするが、「なーん!」と抵抗にあう。

そこに3年生のMくんが来て、「Mさん、そんな無理やりやったらダメだで。」とたしなめられた。

「じゃあ、どうしたらいいの?もう時間過ぎてるのに、Aくん帰ってくれない…」

Aくんが帰ってくれないと『私が』困るのよ、と私は考えていた。そのことを自覚した。

それが仕事だから。

でも、そんなことAくんの気持ちとは関係ないね。

私だって、もう少しAくんの気が済むまで遊んでたっていいと思うけど、でも決まりは決まりだから。

 

Mくんは「こうしたらいいけ。見ててな!」と私の目を真っ直ぐに見て、

Aくんの前に回って「Aくん、帰ろうな。あっち行こう!」と優しく優しく声をかけた。

「なん!」

「明日またいっぱい遊んだらいいから。今日はあっちに行こう。」

「…」

「そうすればいいんだね。Mくん、ありがとう!」

「いいで。」

いつもすぐに帰らなくて怒られているのはMくんなのに、小さい子たちが不適切な行動をすると、急激にみんながいい子になって決まりを教え始める。

大きい子たちを成長させてくれる小さい子たちにも感謝しているし、小さい子たちを優しく指導してくれる大きい子たちにも感謝している。

 

Aくんは太鼓橋から手を離して降りたが、しかし次は砂場のスコップとカップをつかんで、しゃがみこんで小石をカップに入れ始めた。

「…あかんなあ…」絶望しかける私。もう真っ暗になってきた。

「AくんAくん、帰ろうで〜」

「なん!なん!」

「はい、砂場のスコップはもう置いてな。」

「なん!」

Mくんは根気強い。しかしAくんは手強い。

スコップを投げ飛ばし、小石をばらまき、お怒りである。

「あ、これも片付けなきゃ…」いつも遊んだおもちゃを放りっぱなしで逃げて帰るMくんなのに、砂場のおもちゃと時間を気にしている。どうしたんだ。すごい。

「Mくん、ありがと。片付けは今日は私が後でしておくから、今はAくんを玄関に連れて行くの手伝ってくれる?」

「いいで。Aくん、抱っこしようか。」Mくんが手を広げて近づくと、「なーんー!」と言って泣いて私の足にまとわりついた。

そこをすくい上げて、抱っこをした。「Aくん、ママのところ行こうか。」

「ママ!」

こうして何とか目標を一致させることができた。

 

 

自分の不出来さばかりに目がいく。

けれど確かに、Mくんと私は、良い関係を作っていっていると思う。

私が小さい子たちにまみれているとき、

(背中に6歳児をおんぶして前で4歳児を抱っこして、その状況で7歳児に抱っこしてって足をつかまれていたり、実際にまみれている 笑)

気づいたらMくんがいて、2歳児や0歳児を優しくなでていたり、見てくれていたりする。

なんて優しい顔をするんだろうと思う。

2歳児や0歳児に「Mくん優しいね。いいね〜」と言う。小さい子たちはキャッキャッと笑う。

Mくんはとても嬉しそうな顔をして、そっと小さい子たちのほっぺたをなでる。

 

 

こうして書くと、とても美しい情景だ。

実際そうだ。こんな美しい情景に、私は日々溶け込んでいる。

 

いたずらっ子のNくん6歳も、Aくんや0歳の妹Rちゃんをとてもとても優しい顔をして抱っこしてあげることがある。

(Nくんは倉庫の屋根に登ったり、3階の窓ガラスに張り付いたり、我々の寿命を縮める…)

Nくんが抱っこをすると、泣きかけたRちゃんの顔が、パッと輝いたりする。

こんなに小さくても、自分のお兄ちゃんのことしっかりわかっている。

NくんはそっとRちゃんの頭をなでる。

私はNくんの頭をそっとなでる。「優しいお兄ちゃんだね。Rちゃんとっても喜んでるね。」って言う。

そんなNくんを見ていて、Mちゃん3歳が「Nくんが抱っこがいい!」と抱っこをせがんでいた。

Nくんはいいよと言って、椅子に座った膝の上でMちゃんを抱っこしてあげていた。

それを見て、Kくん2歳もMちゃんが降りたすきを見てNくんによじ登って抱っこしてもらっていた。

照れながら、優しく背中を支えてあげていた。

こんな風にして、遊びながら子どもたちは仲良くなっていくんだなあって

言葉なんていらないんだなあって、学んだ。

Nくんはとても穏やかな顔。

数時間前に砂場で泥水をぶちまけ、砂を周りにかけ、「言うことなんて聞かないぜー!」と私に言った彼と、とても同一人物とは思えない。

 

さあお家に帰ろうとなった時、しかしNくんの「やだ」が始まった。

お母さんがご飯作ってくれたから、一緒にお部屋に上がろうと誘っても、何を言っても「やだ」と言ってYouTubeを見ている。

どうすれば言うことを聞いてくれるかはわからないけど、無理やりは絶対うまくいかないことはわかる。

小さい子たちはみんな誰かに抱っこされて帰っていった。

…ということはもしかして?

「Nくん、抱っこしてお家まで一緒に行こうか?」

「うん!」Nくんは振り向いて、私に飛びついてきた。

「テレビ消してくれる?」

「うん!」握りしめていたリモコンでテレビを消して、渡してくれた。

「ありがとう。帰ろっか。また明日遊ぼう。」

「ねえ、階段で上がって。」

「え!?3階まで?こんな大きいお兄さん抱っこしたまま上がるんですか?」(エレベーター使う気でいたのに〜)

「そう。」

Nくんの照れ臭そうな笑顔に負けた。

「わかった!重たいけど頑張る!」

「えへへ。」

そうね。お兄ちゃん100%は嫌なのね。弟でもある君は、しっかり甘えん坊もしたいんだね。

お家に送り届けると、いつもは「帰っちゃダメー!」ってひと騒ぎするNくんだったのに、

すっと降りて「バイバイ」って笑顔で手を振ってくれた。

 

 

「言うことをきかす」という発想がそもそも間違いなんだろう。

「協力を勝ちとる」ことを目指すべきなのだ。

とてもとても難しいけれど。

でもパセージでは、アドラー心理学の育児では、それが徹底して主張されている。

まずは良い関係を作ることから。

良い関係は、感情を使って怒ったり、ご褒美を与えて釣ったりしていては、作れない。

だってそれは我々大人が上で、子どもが下という関係性を強化することだから。

だから私は、してほしいこと、してはいけないことを冷静に伝え続けて、話し合って、納得してもらって、選んでもらえるように、

ああ、賞罰でもって子どもたちを育てている人たちの傍らで、仕事のできる職員さんたちに疎まれながら

子どもたちと接していこう。

 

 

それどころじゃない、とも思う。

彼らの生活は大変だ。

ゲームやテレビを子守りに使うのは、私は今も賛成できないけれど、

でもそうでもしなければどうにもならない場合がある、ということもわかるようになった。

子どもたちが社会に適応できるように、苦しいことばかりの子どもたちのために、

頑張ってもらうためには、せめて楽しいことが待っているからって思ってもらえるように、

ご褒美を与えようとする大人たちは、まったくの善意だし、愛情がたっぷりであることもわかるようになった。

私が目指しているものは、高すぎるところにある。

それはわかっている。

だけど、大変な状況にある子どもたちだからこそ、

より一層、協力して生きていくことを学んでほしい。

勇気を持って生きていってほしい。

今を快適に暮らすことももちろんできる限り叶えてあげたい。

だけど、未来を切り拓く力を、何よりも必要としている子どもたちだと思う。

そのためには、小さな小さな輝きを見つけるたびに、それを大切に、自分のものにしてもらえるように、伝えていくしかないのだと思う。

私もこのぬかるみに足を取られる。

でも子どもたちはこの泥にまみれる必要はない。

 

 

こんな何の手応えもない、先の見えないことを馬鹿みたいにやって、

それを一人前に「仕事」などと言って、私が生活するに足りるだけのお給料をいただいて、

何で私はいつもこんなに気楽に生きていられるんだろうかと思ったりもする。

でも、少しでも良いことをしたいと思って一生懸命なのは本当だ。

今はこうやって生きていく道を選んだ。

はっきりとはわからないけれど、アドラー心理学をもっと学べるように、いつかはそうなるように、この道は続いていると思う。

 

今日は珍しく18時に勤務が終わるシフトだった。

Mくんのこと、Nくんのことなどぼんやり考えながら家路を歩いていると、

久しぶりに大切な友だちに出会えた。

この道は間違っていなかったんだと思った。

すべきことをして、したいことを忘れないでいれば、私はきっと間違えない。

失敗はたくさんするだろうけど。

この道は私の道だ。

そして私を作っているのは、人々との出会いと、言葉だ。

私は私の中にあるのではなくて、世界の一部の部分集合が私。

だからきっと、馬鹿げた私の懸命さも、この世界には必要なのだろう。