暴く

今日のスケジュールは詰まっていた。

朝はコーラスの練習。

昼に野田俊作ライブラリのオンライン勉強会、

夜に野田先生の論文のオンライン勉強会。

ずっと声を使っていたような気がする。


論文の勉強会はカウンセリングの勉強になっている。

仲間がカウンセリング頑張っているのを聴くと、私も上手にできるように頑張りたいと勇気づけられる。

最近私のカウンセリングルームは開店休業中。

上達のためには実践あるのみだと思うので、カウンセリングさせてもらいたい。

クライアントさん、どこかにいらっしゃらないかな…



カウンセラーのお稽古はあまり進んでいないが、

その代わり、早期回想・中期回想を語ることでクライアントとしてのお稽古は進んでいる。

私は成長したいので、自己執着に気づき、自己欺瞞を暴こうと努めている。


私のたいていの思い込みは子どもっぽく、極端で、現実の一部分の恣意的な切り貼りだ。

あるいは完全なる空想だ。

人間完全に自分の思い込みを手離して自由になることはできないけれど、

今より少しは現実に即した物の見方を手に入れることはできる。

そうやって暴き続けていれば、少しずつ成長していける。

そうすると、問題への対処が少しずつより良いものに変わっていく。


自己欺瞞に気づくのはたいへん痛い。

だいたい、自分を自分で騙しているのだから、気づかないでいられるように不思議な理屈を組み立てているのだから、まずその理屈を壊す必要がある。

その前に、自己欺瞞を暴くぞという決意が要る。


自分がクライアントになれば、痛みも、学びも、身を持って感じられる。

そして少しずつ私がシンプルになっていくよう思う。

シンプルになれば、制御がしやすい。

私は自分を制御することにたいへん興味がある。

だから私を暴いていきたい。


その過程で得たものを、クライアントさんに還元できれば何よりだと思う。




聴きたい

ブログを休んでいた間も、年末年始を除いてはオンライン勉強会に参加していました。

先週はほぼ毎日ありました。

私は夜21時頃から23時は、たいていオンラインで誰かとアドラー心理学チベット仏教の勉強をしています。

コロナ禍のために、対面の講座や勉強会の開催が難しくなったのはとても困ったことではありますが、

遠くの仲間とも、物理的距離を気にせずに繋がろうとお互いに思えるようになったのは、とても良いことだと思います。

そして、みんなで学んでいこうという仲間が私にたくさんいることは、本当に幸せなことです。

 

もちろんオンラインには限界があります。

実際に会えない状態で、感じ取れる情報はわずかです。

オンラインの私は、どこまでもバーチャルリアリティです。

だけど、それをわかった上で、会えない人と繋がるための次善の策としては素晴らしいものだと思います。

言葉だけは、伝えることができるからです。

言葉に思いをのせることができるからです。

 

 

チベット仏教のオンライン勉強会は、チベット仏教の偉いお坊さま(リンポチェ)がお話をしてくださって、それを日本語通訳の先生が解説してくださるという会に参加しています。

私は学び始めたばかりなので、日本語を日本語としてわかることはできるけれど、その意味はわかりません。

けれども、リンポチェのチベット語を聴いて、そして通訳の先生の日本語を聴くと、ああ言葉がわかるということはなんて素晴らしいことなんだろうと感じます。

 

私は言葉を使うことに能力を特化して、居場所を見つけ、社会に適応してきたと思います。

小さい頃からお話しが上手ねって言われて、本を読んだり文章を書いたり、そういうこと、

私は言葉を使うことが得意だと思ってきました。

そして、話を聴くことも私にとっては得意なことだったのだと最近気づきました。

言葉がわかるということは、私にとってとても大切なことです。

相手の言っている意味がわかるということが、私にとってとても大切なことです。

 

反対に言うと、相手の言っている意味がわからないというのは、私にとって致命的な危機的状況なのです。

言葉と裏腹の行動をする人。

言葉の通じない人や生き物。

違う言語を使う人。

こういう相手は、私にとって危険だと思い込んでいたように思います。

 

 

リンポチェの歌のようなチベット語のお話しを聴いていると、私は胸の奥が熱くなります。

そしてその熱が身体中に広がっていくのを感じます。

私は幼い頃、同じ体験をしていたことを思い出しました。

私の周りの大人たちは、私に向かって、たくさん話しかけてくれました。

愛情たっぷりに、私を楽しませ、私がここにいるという喜びを伝えようと、私に何かを知らせようと、教えようと、

たくさんの良い意図で、みんながはたらきかけてくれました。

でも私は、その言葉も意味も、わからなかったのです。

ただわかったのは、周りの大人たちが私を大切に思ってくれているということ。

ここは私の居場所だということ。

私は、大人たちの言うことを、歌うことばを、わかりたいと思っていました。

そして私が選んだ対処行動は、一生懸命に聴くということだったのです。多分。

 

 

私の父はジャグバンドで音楽をしている人です。

父のステージを見に行った楽しい思い出がたくさんあります。

私が幼稚園の頃、父が話してくれたことがありました。

「いつも一生懸命聴いてくれてありがとうなあ。ステージから、美穂の目がきらきら光ってるのが見えるんやで。あんな風に聴いてくれる人、なかなかおらんのやで。」

 

 

私にはリンポチェの言葉をわかることはできません。

けれども、私が幼い頃、言葉をわからないまま、愛をもって話しかけてくれた大人たちと同じように、

リンポチェは私のためにもお話をしてくださっているのだと感じました。

それは、親の子に対するはたらきかけとはまったく違って、

砂漠に水を撒くようなことだと思うのです。

そこから芽が出ることなど、奇跡です。

けれども、それがリンポチェの慈悲のお心なのだと、私はそのことだけは感じることができました。

 

 

言葉でわかることは、一部でしかないのでしょう。

言葉は所詮は言葉です。

そこにのせた思いは、言葉以上のものです。

けれども、人間は言葉を介さなくては思いを伝えることはできないと、私は信じています。

行動や態度でしか示せない様々なことがあると思います。

生きることは、行動することだと思います。

けれども、それでも、私は言葉の力を信じています。

 

新しい世界

長い間休んでいたけれど、私は生きています。

 

 

今日は、阪神淡路大震災から26年になる。

 

あと2日で野田俊作先生の四十九日になる。

 

昨日、安野光雅さんがお亡くなりになった。

 

 

私の子ども時代は、幸せだった。

あたたかい家族に囲まれて、緑に囲まれた街で、輝く思い出ばかり。

それはすべて壊れて戻ってこない。

私の早期回想の舞台は、もう存在しない。

 

私が野田先生のもとで過ごした弟子時代は、幸せだった。

世界はどこまでも広がって、私は自分が変化し成長していくことに夢中になった。

私は自分の生きる意味を知ったと思えた。

でももう師はいない。

 

私の子どもたちと安野さんの絵本を読んで過ごした日々は幸せだった。

世界には不思議が満ちていて、こんなに美しく優しいのだと、

知の世界と遠い国へ、目を輝かせる子どもたちと共に冒険した。

でももう伝えられなかった感謝を伝えることはできない。

 

 

幸せの絶頂に私はいつもいられる、恵まれた人間だと思う。

でもその幸せは必ず壊れることを私は知っている。

さようなら、昨日の世界

はかないものだから、美しいのだと思う。

この一瞬を愛でていたいと思う。

この一瞬一瞬を見つめていたいと思う。

 

 

幸せが消えた後に残された私と世界は、だけどここに確かに残っている。

それでも私は新しい幸せを見つけて、美しいものを見つけて、ああ幸せだと思って生きていたい。

またいつか、その幸せも壊れていくことを知りながら。

この一瞬一瞬が、崩壊に向かっていることを感じながら、

それでも私は幸せを感じていたいから、

いつ壊れるのだろうかなんて怯えずに、足を踏み出していこうと思う。

 

大宇宙と小宇宙

今日も絶対的休日。
オンライン勉強会のレジュメを作っていた。
勉強したいことがたくさんある。知らない世界が広がっていることがとても幸せに思える。


私は小さい頃、冒険が好きだった。
7月頃だったか、秘密基地で遊ぶのが好きだったという話をこのブログに書いたこともある。
最近たくさんの早期回想を思い出すのだけど、冒険というテーマに関わりがあるものが多い。
他のテーマは、ルールやコモンセンスに関わるもの。
そして、Masculine Protest だ。

 

世界を知ることと並行して、私自身を知ろうとしている。
どれも、アドラー心理学という思想と理論を道しるべに、
アドラー心理学の技法を身につけた仲間と共に進んでいく冒険だ。

 

私は少しずつ、幼いときの思い込みから脱して、自由になっていっているように感じる。
そうすると、私が自分のこだわりで目をふさいでいた覆いがなくなって、
今まで気づかなかった子どもたちの、世界の、素晴らしい側面を発見したりもしている。

 


現実に起こっていることを見ると、問題は山積している。
だが、私が今できることはない。無力である。
今私ができることは、私の能力を伸ばすことだ。
もっと学んで、賢くなることだ。
それから、私自身がもっと大人になることだ。
そうすれば、いつか私をみんなのためにお役に立てることができるだろう。

贈り物

今日は絶対的休日。
昨日からまた夫は実家に帰省している。
昨晩はすごい雷雨だった。今日も1日、激しい雨が窓に叩きつけていた。
何度かの雷雨の後、もうすぐ雪が降るんだろう。


このブログのタイトルは、万葉集大伴家持の歌
「あらたしき年のはじめの初春の今日ふる雪のいや重け吉事」
から名付けたことは、最初の記事にも書いた。
失意の中、因幡の国に赴任した家持の見た雪は、ここ因幡の国に住む私の知る雪だ。


万葉集は、野田先生がカウンセリングの勉強をするなら読みなさいとおっしゃった。
「上手なカウンセリングをするためには、言葉の力を磨かなければいけません。
言葉の力を磨くためには、短歌がいいです。
あ、俳句はね、論理がないんですよ。でも短歌には論理があります。
本当は短歌を詠むのが一番いいけれど、まずは短歌を読みなさい。
おすすめの短歌ですか、それは、万葉集です。万葉集、いいですね〜。」
2017年の5月頃だったと思う。
その講座の帰り、本屋に寄って、万葉集全5巻を買ったのだった。
私は真面目な弟子だ。そういう側面では。
そして万葉集すべて読んだ。なかなかの苦行だった。
短歌についての本は、さしあたって正岡子規の『歌よみに与ふる書』を読むのがいいでしょうと言われたので、それも読んだ。

 

野田先生、私万葉集全部読みましたよ!と、7月のある日、報告したら、
「そうですか、では犬養孝先生のご本とご講義のCDを差し上げましょう」と言ってくださり、
野田先生は、テープをわざわざCDに焼き直してくださって、私にくださった。
私は次は万葉集についての犬養孝先生の講義を受けることとなった。
犬養孝先生は、万葉集研究の大家である。
大阪大学でも講義をされておられ、野田先生は犬養先生のご講義を受講されたのだという。
あまりのご縁の深さに感動して、ありがたくて、もうこれは学ばなくてはならないと思って、
しかし若干重い気持ちで犬養先生の講義を聴き始めた。
だって万葉集、よくわからないしあんまり面白くなかったから…。
ところが、犬養先生の講義は、ものすごく面白くて、夢中になって聴いた。読んだ。
犬養先生の歌についてのお話を聴いていると、万葉びとたちの息遣いまでが聞こえてきそうで、
ああ古代の人たちも、同じように生きていたんだなって思えた。
悲しい気持ちや愛しい気持ちや、どうしようもない気持ちを、歌にすることで心を鎮めるのは、今も昔も変わらないと思った。


私のカウンセリングが、万葉集のおかげで上手になったのかどうかは不明だ。
だけど、万葉集を知ったことで、私が人間として豊かになり、強くなれたのは確かだ。
野田先生から私がいただいたこのような贈り物は、数え切れないほどある。
私は野田先生と出会えて、弟子になれて、幸せだ。
師匠からのたくさんの贈り物と思い出は、永遠に私の宝物だ。

 

きょうだい喧嘩

今日は色々雑用と、昼寝の日。
今週はお母さん業が多忙で、疲れているようだ。
今日は(も?)子どもネタでお茶を濁すことにする。


長男と次男は4歳差だが、けんかがかなり激しい。
蹴ったり叩いたり、どたんばたんとすごい音がする。
怒鳴り合い、泣き叫ぶ声も、何事かと思うほどにぎやかだ。
パセージテキストには、きょうだいげんかは子どもの課題と書いてある。
今までずいぶん長いこと、私はパセージをかなぐり捨てて、
もうほんまに静かにして!と、口出しをすることがあった。

 

家族会議で、けんかするときは子ども部屋でお願いしたいですということを提案し、
我が家のルールとして採用してくれたこともあった。
ただし、部屋の外でけんかが始まった場合、どちらが先に部屋に行くかとか、行かないとかで、
また今度はこのルールがけんかのネタになったりもしたり、
私の実際の頭痛の種(身体的迷惑)になっていた。


最近は、この度のパセージのメンバーさんたちの気合に満ちた実践をお聞きして、
私も課題の分離を頑張ろうと思って、けんかが始まったら、離れて一人になるようにした。


料理している最中にそこでけんかが始まったら、
「静かになるまで私は部屋にいます」と言って、
料理を止めて、部屋に閉じこもることにした。
ダイニングではなにやら怒鳴りあいが続いているが、気にしないようにする。
音楽を聞きながら自分の用事や勉強をしていると、
いつの間にか静かになっていて、コンコンとノックがされる。
「はい?」
「…お母さん、ぼくたちもう仲直りしましたので…」と、ドアの隙間から頭がふたつのぞく。
「あ、そうですか。ほんとに?」
「ほんとです!ねー?」
「ねー!ほら!」
「はい、じゃあご飯作りまーす」
早くけんかを止めないと、ご飯はいつまでも食べられない。
ようやく学んできたようだ。


私が学んだことは、私が介入を続けると、彼らは自分の課題に取り組もうとはしない、ということだ。
そして私は、私の課題に取り組むべきだ。
しかし頭が痛くなるような場所に無理していなくたっていい。
私たちは協力し合って暮らしていくのだから。

一緒に学ぼう

今日もお母さん業と、様々パセージ終了後の作業をしていた。

自助グループの方のブログに、今回のパセージのご感想を紹介させてもらった。
ご存知の方はどうぞそちらも見てやってください!
ご存知ない方は、コメント等で個別にご連絡いただけたら、メールでお知らせさせてください。(コメントは非公開にしています)

 

長男は、自分のお友だちのお母さんがパセージを受講されるのも嬉しいみたいで、
「ぼく、友だちにパセージのこと紹介しときましたよ!」と言ってくれる。
「パセージ勉強する前と今じゃ、お母さん全然違うからね。優しいお母さんになったからね。きっと友だちも、お母さんがパセージ勉強して良かったって思うと思うよ。」
恥をさらしているのか自慢しているのかわからなくなってくるのだが、
このように、パセージの前後を知っている子どもは言ってくれた。
私が支配的な母親であることに変わりはないのだけれど、
私は自分の支配性に気づき、手離そうという努力ができるようになったよ。
でも私の成長よりも、君の成長の方がはるかに大きい。


長男がときどき「今日はパセージどうでしたか?」って、聞いてくれるのも嬉しい。
私の関心に関心を持ってくれて、とても嬉しい。
昨日、「ぼく、アドラー心理学の勉強したいんだ。」って言ってくれた。
その言葉は、やがて忘れられていくのかもしれないけれど、それでもまったくかまわなくて、
今、彼がそのように思ってくれたことを私は幸せに思う。

 

 

給食に白ご飯が出ない日があって、白ご飯を持って行かないといけなかった日、
長男から頼まれていなかったのもあって、私はまったく知らず、長男はお箸だけ持って行った。
すると朝、担任の先生から電話がかかってきた。
先生「あの、今日は白ご飯持参の日なのですが、ご飯を忘れてしまったと言いに来てくれまして…」
私 「え!あ、そうだったんですか!すみませんでした!わざわざお電話ありがとうございます!」
先生「…。」
私 「…。」
先生「 …あの、お母さん…?」
私 「はい?」
先生「あのー、ご飯を持ってきていただくことはできますか?」
私 「はい?え?」
先生「いえ、その、ご飯なしで給食ということになってしまいますので…」
私 「あー、そうですね。…あの、おかずはあるんですよね。」
先生「ええ、そうですが。」
私 「あの、ちょっと今日は持っていくことができそうにありませんので、ご飯なしで耐えるようにお伝えいただけますか。」
先生「へ?はあ…え?それでいいんですか…?どうしてもご都合がつかないと?」
私 「そうですね…ええ、ちょっと難しいと思いますので、すみませんが…」
先生「はあ…ではわかりました、はい…」
先生をひじょうに困惑させてしまった。


長男がいつも通り機嫌よく帰宅して
私 「今日、白ご飯持っていく日だったんだってね!忘れててごめんね〜」
長男「あれ、なんでぼくが持ってくの忘れたの知ってるの?」
私 「え、だって先生から電話いただいたんだよ。今日白ご飯持参の日なんですけどって。」
長男「あ、先生ほんとに電話したんだ。」
私 「どういうこと?」
長男「ぼく、ご飯忘れましたって先生に言いに行ったら、お母さんに持ってきてもらうように電話しますねって言ってもらったんだけど、その後先生から何にも言われなくて、そのまま給食食べたから、先生は電話するの忘れたのかな?って思ってたんだ〜」
私 「そうやったんや。ちゃんと先生は電話かけてくれたよ。で、ご飯持ってきてくれますかって言われたんだけど、すみませんちょっと無理です〜って言ったら、めっちゃびっくりしてはったわ。」
長男「あー。」
私 「お腹すいてるだろうなー、持ってってあげた方がいいんだろうけど、でも頼まれてなかったしなー、あーバスも電車もいい時間のがないわーって思って、持って行かなかったんよー。ごめんね。」
長男「いえいえ、ぼくが白ご飯用意してって言ってなかったから、当然です。」
私 「まあ!なんとご立派な」
長男「 お母さんが持ってくるわけ絶対ないって思ってたし 笑」
私 「まあ!よくご存知ですね!」
長男「うん。だから、ぼくは別に持ってきてもらおうと思って先生に言ったんじゃないんだよ。不思議ですね(←枝雀の口真似) 笑」
私 「不思議ですね(←枝雀の口真似) 笑」


長男は課題の分離のプロだなと思った。私よりパセージ上手に実践していることがある。
そして最近「普通のお母さんは、お母さんとはちょっと違う人が多いみたいだよ」って、よく言われる。
長男は「まあ、普通のお母さんは持って行くんでしょうけどね。ちょっと甘いよね。」と、上の会話の後言っていた。
意見が一致していてたいへん嬉しい。

私と長男は、近頃はとても仲良しだ。トラブルがない。
いつか一緒にアドラー心理学、勉強しようか。そんな淡い夢を描きたくなってしまう。

 

 

今朝幼稚園に向かって次男と歩いていたら、

急に「ぼくもアドラー心理学お母さんと一緒にお勉強したいんだ。」と言った。
「えー、そうなの?嬉しいな」
「だってお母さんと一緒にお勉強したいんだもーん」
「じゃあ一緒にお勉強しようね」
「うん!」
次男は、ただ私と一緒に何かをするのが好きなだけ。それも知ってる。
でも、とても嬉しかった。
私が大切にしていることに関心を持ってくれること、こんなに勇気づけられるんだってわかった。