昨日、彼に会った。
これもひとつの出会いだろう。
頑なに他人と会うことを拒絶し続けていた彼が、
今は少しだけ、外の世界と関わりを持とうとし始めている。
それは彼にとって良い変化だといえる、だろう、きっと。
でも彼の姿は私には衝撃的だった。
狂ってしまいたくてたまらないけれど、狂えない。
弱々しい脚を曲げて、イライラと動かす。
世界へのせめてもの反抗が、こんな些細なものだなんてね。
怖くはない。悲しかった。
平気な顔をして彼に話しかけて、その後職員同士で支援について話し合って、
小さい子どもたちのお世話をして、利用者さんと談笑して、
目に焼き付いた彼の姿に何も思うまいと思いながらいつも通りに仕事を続けた。
修羅場慣れしすぎた職員たちは、他の利用者さんたちのそれぞれに大変な物事に対応しながら、
彼のことをどうしたらいいか分からなくて、気休めを言ったり、関係機関に相談しに行ったりする。
最近のテンションは皆高めだ。
大変なことが重なるほどに、明るく振る舞う人たちだ。
本当にすごい人たちだと思う。
だから私も、いつもより明るく、細かい仕事を丁寧に拾うようにした。
そうやってわずかでも私に、ここに居る意味があるって、
ちゃんとみんなのお役に立てているって、思いたくて。
そうでもしなければ、沈んでしまいそうで。
Bill Evansの「Peace Piece」を聴いていて、押し殺していた感情がやっとほどけた。
私にはこんな風に穏やかな心になれるものがある。
言葉を忘れて、美しい別世界へ行くことができる。
私が世界と一体であることを思い出せる。
どうやったら彼の心は穏やかになれるのだろう。
グルグルと同じ言葉を繰り返し続ける彼の中は、嵐のようで安まる時がないだろう。
彼の自動思考の言葉に応答し続けることは、おそらく彼を幸せにはしない。
彼の神経症的策動をより強化するだけだと思う。
だけど誰も他の方法を提示できなくて、効果的な治療ができない。
だけど、そうだとしても、こうやって多くの人が入れ替わり立ち替わり、彼と関わりを持とうとして、あの悲しい部屋を訪れている。
そうやって彼はやっと社会の中で生きていると実感できるようになったのではないかと思う。
彼のお母さんが、
「あんたのために、今たくさんの人が動いてくれてるんだよ。ありがたいって思いなさい。
って言ったんです。そうしたらちょっと落ち着いてくれました。」
そう言って、久しぶりに、ほっとした顔をされた。
ここまでなってしまったのには様々な困難が重なり、様々なまずい事態が重なったからに違いないけれど
この事態を作り出してしまったこの方も、一生懸命、生きてきたんだなと思った。
今私と共に、一生懸命生きているんだと思った。
私たちは今、この親子の物語に関わっている。
おそらく私の願うような幸せな形にはならないだろうけれど、
今この親子の物語が変わろうとしている。
彼は私たちと共に生きている。
そのことを私たちも、彼自身も、思えるようになったことは
よかったことだと思う。
こんなにもこんなにも弱い、そよ風にも吹き消されてしまいそうな灯り。
だけど、今確かに私は彼との間に希望が灯せた。
彼はひとりじゃない。
あなたはひとりじゃないよって、伝えよう。
どれだけ治療に向わなくても、どれだけ的が外れていても、
そのことによって彼の神経症が強化されようとも、
彼がちゃんと周りとの関係の中で生きているんだと信じられるように。
泥の中に沈みすぎて、私はとんでもなく甘くなってしまったみたいだ。
彼が、ちゃんとかまってもらえているって感じてくれるのなら、
まずはそれでいいと思ってしまった。
私たちは、ここに共に生きているのだから。
どうか生き続ける勇気を持ってほしい。