今日も絶対的休日。
また別の友だちとランチをしてゆっくり話をした。
アドラー心理学を共に学んでいる仲間だから、職場での私の行動の意図をよくわかってくれる。
子どもたちの不適切な行動をする構造を同じように見抜いてくれる。
賞罰を使わずに、どうやって大切なことを学んでもらえるかということを、
砂漠のような彼らの世界で、良いように学んでいくことの難しさを、
同じように感じ、同じように考えてくれる仲間がいることがありがたい。
パセージでもカウンセリングでも、
エピソードという事実は変わらないのに、相手役の良いところや良い意図を見つける過程を経て、
ああ、子どもはそういう風に感じて行動したのかもしれないですね、私を責めるつもりはなかったのかもしれませんね。とか、
なんて悪い子だと思っていたけど、必死だったんですね、すごくいじらしく思えます。とか、
クライアントさんの構えがガラッと変わってしまうことがある。
私はそういう治療を目指しているわけだけれど、つまりはそれが物語が変わるということなんだと思う。
セラピストと共により美しい物語を手にしたクライアントさんは、日常に帰って、相手役さんと、今までとは違う物語の続きを紡ぎ始める。
子どもたちと接していることがそのまま私の喜びなのは、子どもたちが物語を生きているからなのかもしれない。
ごっこ遊びをしたり、お話の中にどっぷり浸かったり、空想をしたり。
物語を生きられるか、そしてその物語を共有できる人がいるかどうかということが、子どもの精神の健康度合いに関係しているように、最近感じている。
友だちとごっこ遊びをできる子どもは、健康だなと感じる。
豊かな土壌があると感じる。
たとえそれが、敵に囲まれた中で戦っていくという良くない世界観の物語であったとしても、そこにその物語を共有できる仲間がいるのであれば、
そういう物語を生きる子どもは、対人関係も築いていけるし、世界に働きかけることもできる。
だから、セラピーによって、あるいは勇気づけに満ちた関わりによって、共により良い物語を作り、自分の能力を活かせるより建設的な方法を学び、世界に良い方法で所属し、貢献して生きていくことができるようになると思う。
反抗心旺盛な子たちの多くは、物語を生きているように感じる。
彼らとの日々の小さな小さな場面の中で、美しい物語を紡いでいけるようにと努めている。
今職場にいる子どもたちの中で、私が不安になるのは、
一切の能動的な働きかけをやめてしまっている子どものことだ。
完全に引きこもってしまっている彼とは、私は関わりを持つことすらできない。
無能力の誇示の段階である。
熟練の精神科医や心理療法士などの専門家が間に入らなければ、彼が健康に向かうことはできないだろう。
だが、今は彼を病院に連れていくこともできない状態だ。
彼の生きる世界のことを思うと、苦しくなる。
きっとこうやって精神疾患は作られていくのだろうと思う。
それもまた、この世に所属するために本人が主体的に選ぶ方法なのだ。
でも、もっと、そんなに身を削らないでも、所属することができるんだよ。
あなたがどんな人であったとしても、欠点ばかりで何ひとつ取り柄がないと思い込んでいたとしても、それは全部思い込みなんだよ。
あなたは完璧じゃない理想通りじゃないあなたのままで、周りの人の役に立ちながら生きていくことができるんだよ。
みんな自分のお気に入りの思い込みの上で、それが事実であるかのように世界を組み立てているだけなんだから。
…そんな風に、いつか彼に伝えることができればと願うけれど。
庇護され、飼い馴らされることが怖い。
自分にまつわるすべての情報がデータベース化され、関係機関に共有され把握される。
初めはそれに屈辱を感じても、時と共に、不自由さと引き換えに与えられるものを甘んじて享受するようになっていく。
生き延びるために必要なケースもある。
でも、あまりにこれも、非人間的なシステムじゃないだろうか?
精神を鈍麻させはしないか?
問題の解決は、本人にしかできないのだ。
どんな問題であっても、誰かの代わりに、誰かが代わりに、解決することなんてできないのだ。
職場にはたくさんの救世主と、たくさんの悩み多き善人がおられる。
私は何の期待も持たずに、フィールドワークと修行としてこの職場に飛び込んで良かったと思う。
自分自身のメシア願望に警戒していて良かったと思う。
もしそうでなかったら、私もおそらくそのどちらかになっていただろう。
私にはどうしようもないことがある。ありすぎるほどにある。
その現実を受け入れている。
私は救世主にはなれないし、私には理想的な良い働きかけもできない。
そのことを、私の私的意味づけレベルで本当に受け入れ難いこのことを、受け入れようと決心している。
(本当に辛いけれど!)
だから、私のためではなくて、ただ私が出会える子どもたちのために、
全ての私の言葉が行動が、どうか子どもたちを勇気づけるものとなるよう、努めたい。
でも、この私の決心も、決して悲壮感漂うものではない。
私はいくつもの明るく美しい物語を生きているから。
物語が私を支え、守ってくれている。