満開の桜。
桜はいつも大切な人たちと眺めるから、去ってしまった時間とその人たちを思い起こさせる。
今年の桜は開くのが遅く、雨風にも耐え、長く咲いてくれていた。
数日前、大津へ、チベット仏教のお坊さま(Dリンポチェ)にお目にかかりに行った。
様々な幸運が重なって、お花見のお散歩にお供させていただいた。
通訳の先生のお嬢さんとも、桜吹雪の下で一緒にブランコをこいだ。
また、桜に物語がついてしまった。
世俗へ帰り、窓に向かう職場の自分の席に座ると、
前庭の立派な桜の木から、絵のように花びらが舞い散っていた。
数日前のあの夢のようなひと時が、この小さな花びらで、別人のような私とリンクする。
桜の花は寂しい。
でもこれは私の修行が至らないからだと、わかるようにはなった。
本当はすべてはひとつだから、(一切不二)、私があの時を共に過ごした人たちと離れている、私はひとりきりであるという思い込みが、そもそもの間違いなんだということを。
これが私、これが私のもの、あれはあの人、あれはあの人のもの、という思い込みが、私を苦しめる。
私でない誰かと、私の大切な人たちが、私のいないところでも幸せでいてくれたらいいと、思えるようになった。
少しだけれど、私は、私から離れることができるようになった。
でも、私は、やはり、大切な人たちと一緒に居たいなと思う。
それが執着であることはわかっている。
だから苦しい。
でも、誰かが、また私と会いたいと言ってくれることは、とても嬉しい。
それを求めることが苦を生むことを知っているけれど、
でも、私はそうやって互いに支え合いながら、手を取り合いながら、人々の中で幸せに生きている。
そのことをあらためて実感した。
大津へ向かう道中、この町へ帰る道中、
私にできることや私のすべきことについて考えていた。
連絡をすべきだったのに何か月も連絡をしていなかった方たちに、思い切って連絡をした。
一度機会を逸してしまうと、どんどん連絡はし辛くなってしまうけれど、
すべきだったことは、気づいた時にしようと思えた。
少しは行動できるようになったことを、喜ぼうと思えた。
そう思えたのは、失礼をしていた私に、仲間たちがあたたかくお返事をくださったからだ。
本当にありがたいことだと思う。
アドラー心理学を共に学ぶ仲間とは、わずかな時間であっても、濃密な体験を共にできる。
距離が離れていても、時間が経っていても、「あの時」を共にした仲間とは、再会すると、すぐに「あの時」に戻れてしまう。
その物語が私たちを繋いでいる。
リンポチェのもとに集まる仲間たちの中にも、アドラー心理学の仲間がいて、
久しぶりに再会した方と、「あの時」に戻ったり、「あの時」以降の話をしたりした。
たった1人とでも、そのようなつながりがあることは本当に有難いことだと思うのに、
私にはたくさんの方たちとのつながりがあり、どの方とも等しく、私にとってかけがえのないご縁だと感じている。
そのつながりについ執着してしまうのだけれど、そうではなくて、それを私のものだと思わないままで、大切にしたいと願う。
とても難しくて、多分手放そうとしてはまたすぐに執着してしまうのだろうけれど。
好かれたいとか、一緒に居たいとか、私を思っていてほしいとか、
私の究極的な優越目標は、そのあたりにありそうだ。
だからこの執着が、この煩悩が、私が一番囚われているものなのだ。
それをわかっておくことが、まず初めの一歩。
瞋恚(怒り)、悪口(悪く言うこと)については、昨年の7月にリンポチェにお会いした時と比べて、かなり制御できるようになったと思う。
それはアドラー心理学が梯子をかけてくれているように思う。
アドラー心理学の実践が、仏教の修行をしやすくしてくれる。
「アドラー心理学は所詮は世俗諦ですから」と野田先生が言っておられたことを思い出す。
会えない人を思い出すと、また苦しくなる。
そうなんだ。
私の一番の苦は、誰かと離れることの悲しみや、誰かと離れることへの恐れ。
愛別離苦。
関係への執着、人への執着だ。
色々考えた末にこの職場を離れようと決めたくせに、ここの人々と別れることがもう既に悲しくなっていて、ほんとにどうかしていると思う。
この1年の間にできるだけのことをしようと思って、時間が空いていれば中学生に内線をしていつでも勉強見るよって声かけてみたり、用事で事務室に来たお母さんと雑談してみたり、小さい子の預かりがあればテレビを消して絵本やおままごとで遊んでみたり、
結局私は人と関わるのが好きなんだろうかと、今更ながらびっくりしたりしている。
別にそれはどうでもいいのだけれど。
どうでもいいというのは、私というのは本当は実在しないのだから、私が何を好きで何を嫌いであっても、何も変わらないということだ。
私がすべきことは、目の前にただある。
Hさんのピアノにどうしようもなく魅かれるのは、一瞬一瞬の音楽が、あの日の桜吹雪のように、私の心に残ってしまうからなのだろう。
最近、大切な方たちが続けてお亡くなりになったそうだ。
「仲間内で、私たちもまた会えるかどうかわかんないからねって言い合うのよ。」と寂しそうに笑って言われた。
「みんな年だからね、」って言われるんだけど、そうではないと思う。
年齢に関わらず、誰もが、また会えるかどうかはわからない。
そのときのライブはビル・エヴァンスのWe Will Meet Again をテーマにしたのよって教えてくださった。
ビル・エヴァンスの大好きだったお兄さんへの追悼の曲。
人間は誰もが、大切な人に執着する。
でもその執着から、素晴らしい芸術が生まれるのだろうと私は思う。
良い音楽を、良い音を、良い演奏を、執着し突き詰めると、無我の境地に至ると思う。
人がそこに至るとき、世俗諦から勝義諦というのだろうか、もっと上の論理階型に上がっているんだろう。
私がHさんのピアノを聴きたいのは煩悩で、快い音楽という楽を得たいという執着だけれど、
演奏しているHさんが、執着、人間から離れた神業のような瞬間を感じるから、また聴きたいと思うのだと思う。
そしてこの音楽を、供養したいと思う。
快い音楽と、芳しい香りと、美しい花と様々な美しいものが、世界にあふれたらよいと願う。
同じように、人々の心も美しくなればと願う。
それらすべてを、私のものではなく、みなのものにしたいと願うことが、私にできることなのかなと思う。
だからそれらの良いものすべてを、供養し、回向する。
仏教を学んで、もっともっと、世界はシンプルになったように思う。
なぜなら世界は、私の心を映しているから。
職場では本当に色々なことが起こる。
桜が散り終えた昨晩、赤ちゃんが生まれた。
この桜が咲き始めた頃、赤ちゃんが死んだ。
私たちはひとりきりで一喜一憂することに耐えられないから、
みんなで喜びと悲しみを分かち合う。
でもきっと本当は、花が咲いて散っていくように、世界はただあるだけなのだと思う。
そこに私たちが物語をつけてしまうだけなのだろう。
そしてその物語が、世界を美しく彩るのだろう。
次リンポチェにお目にかかるときは、私はもう少し美しくなっていたいと願う。