全てが映画のワンシーン

今日は今年初めてのオンライン勉強会だった。

野田俊作ライブラリの勉強会。勤勉な仲間たちである。

 

いくつかの勉強会でご一緒している仲間たちとは、他の勉強会での学びがリンクして、

互いの中で新たな学びの成果が生まれていることを感じることができる。

そして学び合うその相互作用の中で、どんどん学びが深まっていく。

ベイトソンアドラーという巨人と、野田先生のまとめられたアドラー心理学と。

勉強は仲間とするものだ。

(対照的に、ひとりでしている資格試験の勉強に、いよいようんざりしてきている…)

 

私は趣味らしい趣味のない人間で、遊ぶこともできないつまらないタイプなんだけど、

本当に、ベイトソンアドラーを学んでいくことだけで、楽しく生きることができる。

言葉の意味をひとつひとつ深く考えて、言葉を足掛かりに答えのない問いをいくつもいくつも考えていくことが、私の冒険だ。

そしてその学びを使って、実際にカウンセリングやグループカウンセリングをして、誰かのお役に立てることができたとき、私は自分を使っていただけたと幸せに思える。

そうやって人々の中に組み込まれて生かされながら、私の物語を作っていっているんだなと思う。

 

人生を物語だと思うと、大変なタスクが降りかかってきても、ああ今度はそういう展開ですか、と思える。

昨年はけっこう大変なタスクが降りかかってきたけれど、

大きな物語の中では、そういう山場も必要だと思うし、

私個人の視点から見ると、おかげでずいぶん成長させてもらったと思う。

これを悲劇ととらえるか喜劇ととらえるかは、私の受け取り方次第なので、その意味づけの仕方だけは全くの自由なのだ。

どうしようもならないことばかりだ。

でも、生きていくって多分そういうことなんだろうと思う。

私を恨む人たちも、私に何か大切なことを教えてくださっているんだと思う。

 

私は、人は差異によってしか物事をとらえることができない、というベイトソンソシュールの考え方を採用している。

だから、私と違う立場の人たちのおかげで、私は自分が大切にしたい価値観に気づくことができていると思う。

関係性がどうであるかという低いメタのことはさておいて、大きな物語として高いメタの位置から見てみれば、

自分と異なる価値観を良いと信じる人たちの存在は、とてもありがたいものだ。

対比できる相手のおかげで、自分が何者であるかを知ることができる。

そこでどちらが正しいかを決めようとするから、争いが生じるのだ。

 

 

相手を裁かずに、真の意味で価値相対的な立場に立つのは難しいが、

その立場に立った上で、自分の良いと信じる価値を選ぶことができればいいなと思う。

何が正しいか善いか美しいかなんて、主観的な判断に過ぎないと思う。

人間はそんなに賢いものではないと思う。

けれど、人間らしく生きるということは、自分の良いと信じる価値観を、信念を抱いて生きることだと思う。

何にも価値を見出せないのは、絶望した状態だと思う。これを虚無主義ニヒリズムに陥った状態という。

時々私も絶望しかけるが、私は価値を見失うことだけはない。

だから、私は虚無主義者ではない。

そして私は、目に見えるものだけを信じる実在主義者でもない。

 

野田先生の「価値相対主義の系譜」という論文を、以前オンライン勉強会で仲間と学び合ったが、もう一度読み直してみたいと思う。

上に書いたようなことについて、詳しく書かれている難解な論文だ。

でも今なら、野田先生の書いておられることが、少しは理解できるかもしれないと思う。

 

 

物語という考え方は、野田先生のアドラー心理学の根底にあると思う。

そのようにものを見るようになってしまうと、全ての場面が舞台になり、全てのエピソードが映画のワンシーンになってしまう。

なんという魔法にかかってしまったんだろうか。

もう人のせいにできない。

私はこの人生を劇として楽しんでしまう。

この味気ない試験勉強は、うんざりしながら取り組む場面なのだ。

これからまた大変なタスクがやってきても、私はまた嘆いたり落ち込んだりしながら、向き合って取り組むのだろう。

 

そういえば私は解離度がけっこう高かったのだった。

それが多分ストレンクスとして発揮できているのだろうと思う。

この人生は、私が幸せになるための物語ではないから。

そう思って、どこまで自己執着を手放していけるのか、美しい物語を作っていけるのか、楽しみだ。

 

ただしこれは、自己犠牲とは全く違う地平にあるものだ。

自己犠牲は、美しくない。

そこに人々との相互作用の中で作っていく物語は見出せない。

自己完結しているところが、違うのだろう。

私が人々の幸せを願うように、人々も私の幸せを願ってくださっているのだ。

だから、私ひとりが幸せになることを目指すのと同様に、私ひとりが不幸せになることを目指すことも、

共同体感覚に向かう美しい物語とは違うものになるのだろう。

幸せな人々の中に組み込まれて、自分の役目を果たしていれば、私は幸せに生きられる。

これがアドラーの言った幸せの定義だと、私は理解している。

とてもシンプルだ。

真理はいつだってシンプルだ。