Heimweh

先月と今月に渡っての4日間、アドラー心理学基礎講座の理論編を受講した。

私がアドラー心理学を学び始めて最初に受講したのが、約10年前の野田先生の理論編だった。

優子先生が教えてくださる内容は、野田先生と変わらない。

アドラー心理学はその理論と思想によって、現代社会の問題を解決する突破口になると

これがただ一つの突破口だと私には思えたから、アドラー心理学を学ぼうと決心した。

それまでにあった知的好奇心からではなく、世のため人のために学ぼうと思った。

そのことを、思い出した。

 

おそらく、それで落ち込んでいたのだろう。

今の私はアドラー心理学を臨床で使えるようにもなり、ある程度身に付けることができたけれど、

こうやって講座に出て自分のエピソードを話したり、グループのみなさんと話し合う中で、

自分の職場で、曲がりなりにも子どもたちのためにお母さんたちのために、アドラー心理学で学んだことを使ってお役に立てていると気づかせてもらうけれど、

けれど、私はあの時のような未来を切り拓く希望を燃やしていない。

 

この職場でアドラー心理学とは全く異なった世界観、文化の人々と共に仕事をして、良い関係を少しずつ築いてきたと思う。

過保護過干渉な業務をこなすために、自分で折り合いをつけながらやってきた。

アドラー心理学を裏切りながら。

そのことを、今回の理論編を受講してとてもよく実感したのだと思う。

 

ホームシック のようなものだ。

このアドラー心理学を学ぶ仲間の中で、ずっと居られたらいいのにと思った。

そう思って苦しいのは、私が自分のことだけを考えているからだ。

そのことも、アドラー心理学を学ぶとわかってしまう。

なぜなら共同体感覚の実現というアドラー心理学の思想的な目標には、自己執着を手放すということによって近づけるからだ。

 

 

とても小さなことだけれど、子どもたちやお母さんたちを勇気づけることができることもある。

いや、数え上げれば、たくさんの実践ができていることに気づくことができる。

それはおそらく、相手の人たちにとっても、良い瞬間だっただろうと思える。

あの子が宿題を教えてと言ってきてくれたから。

あの子がボール遊びしようって言ってきてくれたから。

あの子が行ってきますって手を振ってくれたから。

あの子がちょっと聞いてよ今日こんなことがあったんだよって話してくれたから。

それぞれの子たちに対して私は、権力争いをしたり、注意をしてすねさせたり、勇気をくじいたり、色々な失敗を重ねてきたけれど、

今、私はあの子たちとの失敗をなんとかリカバーして、ずいぶんと良い関係を保てるようになったと思う。

それは本当に、地元の自助グループの仲間も含めて、共に学ぶ仲間にエピソードを取り扱ってもらって、代替案を考えられたからだ。

それは、本当にありがたいことだ。アドラー心理学を学んでいて良かったと思う。

 

でもね、ここの環境が過酷すぎることと、私の理想が高過ぎることとで、私は多分落ち込みやすい。

できることがまだまだあることがわかっているし、生活のためにも、今はこの仕事を頑張ろうと思えているけれど。

 

 

 

仕事に向かう前は、瞑想をする。

私が自分のためではなく、人々のために生きられるように祈る。

いつだって私は自分のことばかり考えてしまうのだけど、瞑想の瞬間だけは、自分が世界のただ一部であることを思い出す。

そうすると、この世界を悲観的に見ないでいられるようになる。その瞬間だけは。

そして帰り道、その日のよかったことを思い出すと、ああ瞑想をしてターラー菩薩に祈ったからだなと嬉しく思う。

そして私の善い行いを世界に返そうとする。

 

そうやって仕事をしている。

だから私にとっては、アドラー心理学だけではうまく機能しないのだ。

野田先生が仰っていた通り、アドラー心理学は宗教とセットでうまく働く、完成するようにデザインされているのだと思う。

そのことに抵抗を感じる人は多いだろうけれど。

でも、心から自己執着を手放そうと決心するなら、人間よりも次元の高い神さまなり仏さまなり世界なりを想定しなければ、不可能だと思う。

 

 

 

こんな話を警戒せずに話せる人はごくわずかだ。

私は現代の日本社会に不適応。

でもその自覚は幼い頃からあった。自分が社会不適応であること自体について劣等感はない。

ただ、適応しなければならない今の状況に、時々疲れてしまう。

それで音楽の世界に逃避して、心身を癒す。

美しい音楽は、人間を超えた存在に近いと感じる。

そうやって私はバランスを取ろうとしている。

 

音楽の世界も私にとっては故郷。

今のこの生活の中でも居場所ができたことは本当にありがたい。

すべての出来事が、意味をもっていることを感じる。

ここに来るために必要な道だったんだと、振り返るたびにいつも思うけれど

やはりそうなんだと思う。

だから、また明日も、わずかばかりの私にできることをしよう。

 

今日は子どもたちが私の部屋で眠っている。

やがて彼らが巣立つまで、この限られた時間を大切に過ごしたい。

彼らの側に居ることを私が選んでいるのだ。

それに付随する苦も楽も、実はどれも些細なことだ。