正しさの誤り

今日はプチパセージと野田先生の論文のオンライン勉強会だった。

 

どうしてアドラー心理学を学び、広めようとしているのですかと聞かれる機会が多い。

アドラー心理学が好きで、学ぶことが楽しいから、

子どもや周りの人たちとのおつき合いが上手になっていけるから、

私自身が成長して、役に立てる人間になっていけるから。

そういう答えを一応は口にする。

けれども、もうアドラー心理学なしで私はものを考えることができないから、

というのが本音のような気もする。

そして、アドラー心理学なしで人々が本当の意味で幸せになることはできないと思うから、私はアドラー心理学を広めたいと思う。

それが私にできる世界への貢献だと思っているからだ。

 

 

以上のことは私の意見である。

私は、アドラー心理学の考え方が正しいと思い込んでいた。

価値絶対的にそう思い込んでいたなあと思う。

だから、アドラー心理学の考え方を理解しようとしない人、理解はしようとしたものの実践しようとしない人のことを、間違っていると裁いていた。

正しい考え方を理解し、実践しようとしている私が正しいと思い込んでいた。

そのような価値絶対的な立場に私がいる限り、決して争いはなくならないのだと、ようやくわかってきた。

 

 

相手との関係性がどのようなものであるかが、まずチェックすべき点だ。

臨床的枠組が成立しているのか、していないのか。

成立している場合は、私が相手にアドラー心理学を正しく学んでもらえるよう援助することができる。

成立していない場合は、私は相手にアドラー心理学を学んでもらえるよう援助することはできない。

 

臨床的枠組が成立していて、かつ、相手がアドラー心理学を正しく学びたいと思っている場合、

私たちは正しくアドラー心理学を学ぶということの目標が一致する。

そこではじめて、どうやって学ぶか、という協力する手段について相談することができる。

ある場合は、自助グループや勉強会、プチパセージやパセージ、カウンセリングなどから、どの場を使うかということも相談に入るだろう。

 

この段階まできちんと手続きを踏んで、(パセージで学ぶ手続きである)

私と一緒にアドラー心理学を学びたいという方に対して、

私ははじめて働きかけることができる。

 

そうではあったけれど、それらをすべて踏まえていても、私は相手を裁いていることが多かったと思う。

それはアドラー心理学から外れているよと、私が言葉で正していかなければ!と思い込んでいたと思う。

今、メタの視点を手に入れた私は、そういう「〜しなければ!」を警戒する。

そういう価値絶対的な熱い思いが、あらゆる争いの根であることを思い出してみようと思う。

 

 

確かに相手はアドラー心理学を正しく学ぶことを目標としている。

けれども、私に、この瞬間に少し私が話すだけで相手の認識を変え、正しく学んでもらえるほどの力があるとでもいうのか。

(きっと、あると思っていたんだろうな。私は。)

 

私にできることは、相手の物語をともに生き、その物語の中で見方を変えられるように働きかけることだと思う。

まず相手の物語を、全然アドラー心理学からはかけ離れているとしても、

その物語を私が受け入れることだ。

その物語の中に入らない限り、私たちは言葉が通じることはないのだろうと思う。

一度相手の物語に入ってしまって、同じ言葉が通じるようになれば、

アドラー心理学の治療技法を上手に使えば、

今度はその言葉の意味を変えてしまうことができる。

その物語を、言葉を使って、より良い物語に変えることができる。

この「変える」というのは、私が一方的に働きかけるということではなく、

相手自身が別の選択肢を見つけていくという意味だ。

しかし、完全に相手が自由に選択肢を見つけられるというわけではなくて、

私は必ず、美しい物語へ向かうようにという働きかけをずっとし続け、相手に影響を与え続けていなければならない。

それも、ほぼ気づかれないようにさりげなく。

それがうまくいったとき、物語の変化によって相手の見ている世界自体が変わってしまい、

そのとき私と相手は、より良い関係になっているだろうと思う。

 

 

おそらく相手を裁いていたとき、私はアドラー心理学の理論というレポートから、メタの位置から相手のエピソードを眺めていたのだろうと思う。

この点がアドラー心理学の理論から外れているよね、パセージの技法から外れているよねって、減点方式で採点していたのだろうと思う。

また、同じようにして自分の対応についても、自己批判していたのだろうと思う。

この方法を続けていると、アドラー心理学を学ぶことはとても辛くなっていく。

だって、完全にアドラー心理学を実践することはおそらく人間には無理だろうから、

私はいつまでたってもバツがつけられてしまうから。

 

 

相手の物語を生きようとするとき、私は現場レベルで、相手のエピソードをそのまま味わおうとしているのだろうと思う。

そうすると、至らないところがたとえあったとしても、こんな良い意図があったんだとか、ギリギリのところで踏ん張って、一生懸命だったんだということが、

ありありと感じられる。

そして、ではもし勇気を持って他の選択肢を選ぶことができるとするなら、この場面でどんなことをしてみれるだろうか、と、

ここではじめてメタの位置に上って、アドラー心理学やパセージに照らして代替案を考えてみる。

そして相手が実践できそうな代替案を共に考えて、それを実践できるように勇気づける。

これがアドラー心理学の治療の大枠だと思う。

治療のプロセス自体が勇気づけなのだと思う。

 

 

治療がうまくいくとき、現場レベルでは、価値相対的なのだと思う。

しかしメタのレベルでは、アドラー心理学の理論は価値絶対的であるかのように治療者は振舞わなければならないだろうと思う。

 

私たちはいつも異なる論理階型にあるものを混同してしまう。

「〜しなければ!」と私が緊張するとき、そこにはおそらく論理階型の混乱があるはずだ。

そう意識して、問題を整理してみたい。