今、アドラーの生きた時代以前のドイツ圏の経済社会構造について本を読んでいる。
今からやり始めたのでは短期目標にはおそらく間に合わないのだけど、
中期目標に向かって行動を始めた。
アドラーの思想を、思想史の中にきちんと置いて見てみたいと思っている。
それを、野田先生は精神医学史、臨床心理学史の中に置いて、
様々な論文を書いてくださった。
それに加えてもうひとつ、社会構造とか実際の人々の生活というものの中にアドラーを置いて、見てみたい。
アドラーは偉大な人だった。
偉大すぎて、歴史の先を予見していた。
だけど、社会や歴史から切り離されてアドラーの思想が生まれたわけではない。
アドラーの生きた時代を知ることで、
現代日本でその思想をどう活かしていけるのか、ひとつの展望が見えるのではないかと思う。
もともと、私は農学の思想について大学で考えていた。
結局ほんの入り口にも立てないまま、
大学院に進むことを、私的な生活を大事にすることに決めて、やめたのだった。
その選択は、間違ってはいなかったと思う。
ずいぶん長く未練があったことは確かだけど。
あのとき大学院に行かないことを決めて、たくさんの本を読んで、
子どもを授かって、子育てに悩んで、
そういうことがなければ、アドラー心理学を学ぼうとは思えなかったから。
そして、あのときに決断していたから、私は野田先生の弟子になれたから。
私がアドラー心理学を学ぼうと、これを生涯学んでいこうと決めたのは、
臨床家になりたくてそう決めたのではなかった。
アドラーの思想だけが、近代思想への有効なアンチテーゼだと思ったからだ。
人が幸せになるためには、アドラーの理論を学び、実践することだけでいいと思ったからだ。
私の手にしたい思想探しの旅が、目標にたどり着いたからだ。
学ぶその過程で、実践というものが、私一人でできるものではないことがわかり、
学びを伝えてもらい、学びを伝えていくことの中で実践できるものだと思った。
仲間を増やさなければ実践できないと、学べないとわかり、
まずは仲間を増やすためにパセージリーダーにならなければと思った。
それから、よりアドラー心理学を実践できるように、カウンセリングの勉強もした。
この頃にはもう、とにかく修行だと思ってやれることは全部やろうと、走り始めていたと思う。
今、幸せなことにカウンセリングをさせていただいて、
パセージもさせていただいている。
でも私は、よい治療者になりたいという目標もあるけれど、
よい治療者になるだけが私の目標でなかったことを思い出した。
私は、アドラーの思想を深く理解したかったのだ。
今、理論は概ね理解している。
だけど、アドラーの思想を感情的にではなく、直感的にではなく、
論理的に、きちんと理解したい。
そうすることで、アドラー心理学の理論も正確に理解することができるだろうと思う。
今、巷で見聞きするアドラーという名のものは、
では何がアドラー心理学なの?という問いに、
私なりに誠実に応えてみたいと思う。
時間がかかってしまうかもしれないけれど、
タイムリミットは迫っている。
やれるだけのことをやってみよう。