ミクロの共同体感覚

今晩は何もない穏やかな夜。夜勤中。

 

被災地では雪が降っているだろうか。

被災地の方々が一刻も早く安心できる生活がおくれるようにと祈る。

 

 

19年前の阪神大震災の日のことを思い出す。

あの日を境に私は現実の中に生きるようになっただろう。

あの日を境に私は生活することに関心を持ち始めただろう。

あの頃私は守られている子どもでいられてよかった、と思い、

少し臆病な自分に気づいた。

今、もしも自分の身に同じことが降りかかれば、自分の家族と職場の利用者さんたちを守るために、私は頑張らなければならない。

とはいえ私は独りではなく、仲間と共にはたらくことになる。

しかも今や私たちは、どこにいても大切な人たちとスマホでつながっている。

何より私たちは、いつ何が起こるかわからないことを知っている。

だから私は、あの日暗闇の中を手探りで生き延びる道を探していた両親のような、突然まったくの混沌の中に投げ出されるということにはならないだろう。

 

 

 

今日、カウンセリングが終結した。

初めて、ライフスタイル分析をさせてもらっていた。

クライアントさんの早期回想を元にして、長い時間を共に冒険させてもらった。

日々美しくなっていかれるクライアントさんがまぶしかった。

私の方が学んだことは多かったかもしれない。

これからも試練は否応なくやってくるけれど、お互いに強く生きていこう。

私たちは仲間で、一緒にいるから。

 

 

 

☆☆☆

 

私の早期回想は、阪神大震災の頃のものがとても多い。

トラウマ的なものはひとつもなくて、ほとんどがよい早期回想だ。

同じ体験をしても、どのように意味づけるかは人によって様々だ。

私は自分の被災の体験を振り返っても、私は本当に幸せだったとしか思えない。

けれど、この元旦の大地震があってから、ずっと気分が塞いでいる。

だからどうということでもないのだけれど。

変わらない日常を普通に過ごしているけれど。

 

変わらない日常をおくりながらも、職場の利用者さんたちの状況はほぼ毎日が修羅場で、

私にはほとんど何の役にも立てないということを実感する毎日だ。

せめてここの子どもたちが健やかに育つようにお手伝いができたらと思い、パセージの実践を頑張ろうと努めているが、失敗する。

子どもたちの状況も、過酷だとわかっていたけれど、私が今まで思っていた以上に過酷であるようだ。

 

 

職場で様々な大変な事態を見聞きする度、群像劇を見ているような気分になることはこれまでにも書いたと思う。

この、どうしようもない物語を悲しみながら見つめる感じが何かに似ていると思っていたが、子どもの頃読んだ本だったことに気づいた。

先ほど『見習い物語』(レオン・ガーフィールド著)を読んでいて、気づいた。

『にんじん』『あゝ無常』『小公女』など。

あしながおじさん』も『アルプスの少女ハイジ』も『フランダースの犬』も、

他にもたくさんの本を読んだけれど、

おそらく同時代に書かれた、第一次世界大戦後の近代児童文学なのだろう。

手に取る多くの本には、それ自体がテーマではなくても、どうしようもない貧しさと子どもの悲惨な状況が描かれていた。

貧しさと飢えを知らない私は、それは遠い遠い世界のことだと思っていた。

ずっと昔の、遠い外国の話だと思っていた。

でもそれは違うということ、今現在もそのような子どもたちがいることを知り、ユニセフの活動などに興味を持ったこともあった。

それでも、貧しさと過酷な環境というのはやはり遠い世界のできごとだった。

そうだったのが、今私は、渦中の人々の生活の中で過ごしている。

 

そうなのだ。

私には何ができるんだろうかと考え、何もできないことに気づき、落ち込む。

それは今までずっとそうだった、馴染みの落ち込みだ。

でも、今の私には、具体的な相手がいる。

目の前のあなたのために私には今何ができるだろうかと、いつも考えることができる。

それは、ありがたいことだと思う。

少なくとも、私はあなたの役に立ちたいと伝えることができるから。

誰一人信じられないような人の、仲間になれるかもしれないから。

少なくとも、ここにいるわずかの時間だけでも、あなたの側にいることはできるから。

私にできることなんて、たかがそれだけのことだ。

ただそれだけであっても、何もできないでいるより、ずっとよいことだ。

そう思って、

もう夜が明ける、

おはようございますと、出会った人に笑顔で挨拶をしよう。

 

 

どんなに大変なことがあっても、辛いことがあっても、それにも関わらず人は幸せでいることができる。

その大変さや辛さや過酷さを私が誰かと同じように感じることはできないけれど、その中にいても幸せを見つけるお手伝いができたらいいなと願う。

ライフスタイル分析という早期回想の冒険は、そういうことをしていたのだろうと思う。

 

私は今子どもたちの早期回想を作っている。

私は相変わらず目標が高すぎるんだな。

子どもたちが勇気を持って生きていけるように、何かしたいのだけれど。

でもやっぱり、今の私には力が足りなすぎる。

そうやって落ち込んでいるから、もっとアドラー心理学を学んで、何かができる自分になろうとしている。

これでも、メシア願望はずいぶん薄れた方だと思う。

世界を救うのではなくて、目の前のあなたが、ちゃんと今の私には見えているから。