現実逃避に勤しむ日々。
アドラー心理学のオンライン勉強会に参加すると、職場での様々な出来事が思い出されて
現実逃避していることに気づく。
理想とかけ離れた事態。
その事態をどうにもできないことに苦しむことは、もうなくなった。
どうすればいいのかわからないこの事態を、受け止めようとしている。
受け止めて、支援の方向が定まらず皆で迷走する様子も受け止めて、
私にできることとしては、情報を集め、小さな安心の場作りを手伝おうとしている。
そして、皆が一生懸命に生きて、皆が一生懸命に自分のできる手伝いをしようとしていることを見ようとしている。
私の理想には向わなくても、だからといって誰かが悪いわけではないだろう。
そこまでは思えるようになった。
でも、私の理想が言語化されてしまうと、真っ直ぐに受け止めるのは辛くなる。
アドラー心理学を学ぶ時、いつも私は仲間と一緒に居るから、よかった。
同じ理想を持つ仲間とだから、この現場にひとり違う気持ちで向き合っていても
なんとかどちらも放り出さずに留まれているのだと思う。
現実逃避の方法として私には音楽がとても有効である。
ひとりでいるときは、色々なジャンルの音楽家のYouTubeをサーフィンしている。
音楽的とは何かという話題について、あるオペラ歌手が言っていた。
「作曲家が伝えたいのは、1曲の中でひとつだけ。
そのひとつの音(フレーズ)に向かって曲は組み立てられている。
この曲は何を伝えたいのか、何が大事な音なのか、まずはそれを理解することだ。
それ無くしては、どれほど音色、音程、リズム、技術が素晴らしくても音楽的な音楽にはならない。」
今日のオンライン勉強会の要素還元主義についての話題のとき、
このオペラ歌手の言葉が思い出された。
あまりに話題が逸れてしまうので、これについては黙っていたけれど。
(という判断も、科学と哲学の変遷という今日の曲の中で、この比喩はあまり相応しくない装飾過多なフレーズであると思ったからだろう。)
どれだけ技術的に素晴らしく、クラシックだったら楽譜通り、ジャズだったら思惑通り(?)の演奏だったとしても、
「歌ごころ」が無ければ音楽的でない。
その音楽の「意味」をわかっている音楽家が、その「意味」が聴衆に伝わるように演奏できなければ、それは音楽的ではない。
それは、ある事象を細分化し、それぞれの部分を「明晰判明」に探求し、漏れなく重複なく調べ尽くし、それらを正しく組み合わせれば、元の複雑な事象がそのまま理解できる、
という要素還元主義への明快な批判だと思った。
「全体は部分の総和以上である」!
はじめにこう言ったのはアリストテレスだそうだ。
生き生きとした、ものがただの物ではなかった時代の言葉だ。
機械は人を超えられないだろう。
だって機械にできるのは計算であって、どこまで緻密な計算ができるようになり、表面上は人のような判断ができるようになったとしても、
それだけでは「意味」はわからないから。
「意味」とは何なのだろう?
それは多分、物語なのだろうと、今私は思っている。
オペラ歌手の話はわかりやすい。
オペラははじめに物語ありき、歌詩ありきの音楽だからだ。
だから歌付きの音楽については、もっとも伝えたい言葉(フレーズ)につけられている音楽(フレーズ)が、その曲の伝えたい「意味」だといえる。
それならば、歌詞のない曲については?
私は音楽を言葉を通してしか理解しにくいという意味で、音楽について劣等性があると以前書いたが、
それは多分正しいと思う。
ただ、元々音楽は、神さまに捧げる言葉(祝詞)から始まったものだ。
はじめに言葉ありき、だったのだ。
そこに音楽がついた。
だから言葉から音楽を理解しようとするのは、いわば古典的な方法だろう。
歌詞のない曲の「意味」を理解するのは、歌詞のある曲の「意味」を理解するよりも高度に違いない。
でも、イタリア語やドイツ語や、全く知らない国の言葉で歌われている歌詞のある曲は、
私にとっては歌詞の「言葉の意味」が理解できない曲であるが、
「言葉」の理解など超えてその「音楽の意味」を感じてしまうことができる。
「音楽の意味」は「言葉の意味」を理解していなくても、きっとわかるのだろう。
音楽で感動するということは、「音楽の意味」がわかるということだと思うから。
映画「ショーシャンクの空に」で、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」の「手紙の二重奏(そよ風に寄せる)」を聴いた囚人が
「こんなに美しい音楽は、きっと素晴らしいことを歌っているに違いない」と思うのだけれど、
それはこのオペラの筋とは全く違っている。
手紙の二重奏は、浮気な夫を懲らしめるために、夫人と小間使いが悪知恵を絞って手紙を書いているシーンの歌なのだから。
けれどこの曲はあまりに美しい。
だからやっぱり、音楽は音楽として、言葉と離れて、「意味」があるのだろう。
現実逃避の一環で、今日は夕方に仕事が終わったので、久しぶりにドラマを見た。
「刑事モース」というイギリスのドラマで、大好きで何度も観ていたものだ。
このドラマの素晴らしいところは、音楽。
主人公のモースがオペラ好きで、ちょっとご都合主義すぎるぐらい、事件解明の手掛かりにオペラが関わっていたりもする。
このドラマのテーマ曲も素晴らしくて、映像も美しいのだけど、
何気ないシーンにこのテーマ曲がかかると、ものすごく印象的で、そのシーンに「意味」が生まれてしまう。
映画なんて(イギリスのドラマではよくあるけれど、このドラマは1話が1時間半ぐらいあって、作りこみもお金のかけ方もほとんど映画のようだ)、
全てが作り物、「意味」の構築物だ。
今日、どの音楽がどのシーンに流れているかということで、そのシーンの「意味」が少しわかるようになっていた自分が嬉しかった。
何度も繰り返して観ているから、やっとわかってきたのだろうけれど。
でもその「意味」は、単なるオペラの曲の歌詞の「意味」だけではなくて、
このドラマの中の登場人物に託された「意味」とか、関係性の「意味」とか、
そういうオペラで使われる音楽の手法を、より複雑に使っていて、私はまだ味わい尽くせていないけれど、面白いなと思った。
音楽についての理解があれば、映像作品に、より深い、より多様な「意味」を見出すことができると知った。
そしてこの「刑事モース」のシーズン1第1話の中心になっている音楽が、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」。
久しぶりにプッチーニを聴いて、ああプッチーニだなあ!と感じた。
試しにトスカやトゥーランドットを聞いてみたら、やっぱりプッチーニだった。
作曲家はどんな曲を作っても、その作曲家の「らしさ」が出てしまう。
おそらくそれはアドラー心理学でいう「ライフスタイル」に近いもので、どうしても表れてしまうその人独自のものなのだろう。
だとすれば、音楽の「意味」は、人生の「意味」とも重なる。
作曲家が意味づけている人生が、作曲家の作る曲に表れるのだろう。
それは、どれだけ楽譜を探究して理論を紐解いてもわからないものだ。
どれだけ歌詞の言葉を読み解いてもわからないものだ。
それを今は、極めて多義的な「意味」という言葉でまとめてしまうことにする。
現実に向き合うひとつの方法として、脳内BGMを流すという試みをすることがある。
一瞬一瞬が、ドラマなのだ。
私の職場で出会う人たちは、皆、ヒリヒリと不安定に一生懸命に生きている。
私が話す一言一言が、私の見せる表情が、相手にとっては大きな「意味」を持つ。
それは私の意図からは離れた、相手にとっての、相手の物語の中での「意味」だ。
私もある意味で舞台に立っている。
私の言葉は、表情は、職場では私の個人のものではなくて、相手に良い影響を与えるためにある。
支援職というのはそういう意味で、カウンセラーにも似ているところがあるのかもしれない。
そう思えば、私にここにいる意味はあるだろうし、
こうしてドラマを作っているのだと思えば、悲しいできごとも受け止めやすくなるかもしれない。
私はきっと、麻痺はしていない。
悲しめるということは、「意味」を感じているということだ。