Beautiful Love

ジャズバーで気に入った曲を見つけると

さっきの曲はなんていう曲ですかと尋ねて、覚えた曲名を帰宅してから検索してみる。

そうやってライブで味わった一瞬を消えないようになぞっている。

ジャズは元のメロディーを隠してしまうほどのアレンジもできるので、

これも同じ曲の演奏だったのかと驚くことが多い。いつも新鮮だ。

だからジャズの曲を覚えるのは私にとっては難しいのだけれど、

歌がついていると覚えられることに気づいた。

なので、曲の検索と歌詞の検索がセットのルーティーンになった。

 

何度も同じ曲を聴くのは、昔から好きだった。

何度も同じCDを聴いてそのCDすべてを覚えてしまって、曲順をシャッフルして再生するのは気持ち悪くなってしまうぐらいに、繰り返し聴いていた。

YouTubeなんてなかった私の学生時代は、自分たちが演奏する曲をどうにかして入手して、それをCDやMDに録音して繰り返し聴いていた。

何年のどの学校の演奏がいいとか、吹奏楽の友だちはマニアックな好みがあったな…。

今はスマホですぐに無料で音楽にアクセスできる。

おかげで手間なく世界がどんどん広がっていく。

だけどある程度新しいものを知って満足すると、私はその中からお気に入りの演奏を見つけて、

今度はその曲の演奏者の別の演奏とかその曲の作曲家の曲を聴いて、世界を広げていく。

今日はこの曲が聴きたいと思ったら、たいていそのまま数日はその曲ばかり聴いていたりする。

というわけで今日は「Beautiful Love」の日。

 

この私の音楽の聴き方は、全くそのまま、私の本の読み方と同じであることに気づいた。

ある本が好きになったら、繰り返しそれを読んで、その本の作者のことを調べ、その作者の別の本を読んだり、その本の書評を読んだりして、世界を広げていく。

そうやって世界を広げて、作者の頭の中や思想を知ることでその本のことをより理解し、浸ろうとする。

 

言葉が私にとっては世界を理解する方法で、

言葉を使って物語を味わおうとしているのだろう。

いかにしてこの本が生まれたかという物語、作者の生い立ちも含めた物語を。

多分そうやって、私は1曲1曲にも物語を見出そうとしているのだろう。

音だけでは、私は音楽を味わい尽くせないようだ。

サイコドラマで私のエピソードを扱ってもらった時に、BGMをつけてみるという手法でセラピーをしてもらったが、

あの時に私が出した曲は、「オペラ座の怪人」の序曲と「くるみ割り人形」の序曲だった。

つまり、言語化された物語と一体化した音楽だったということだ。

 

なるほど、私は音楽が不得意であるという劣等感を持っているが、

純粋に音楽だけで音楽を味わい尽くせないという意味で、劣等性があるといえるだろう。

だからある曲を味わおうと思うと、その曲の歌詞や背景を調べたくなる。

あるいは、その曲を聴いたその現場に物語を見出そうとする。

あの日のあの曲。あの人と共に聴いた曲。あの人が演奏した曲。

そうすると、その日の私の感情も身体の感じもありありと蘇る。

するとその曲にはもう、消せない物語が染み付いてしまう。

 

 

悲しいことがたくさんあって

ひとりでいるときにものを考えたくないから

頭の中を音楽で埋めてしまいたいと思うのだけど

結局私は1曲1曲にも物語を求めているから

頭を空っぽにはできない。当然のことだ。

悲しくても、美しい物語にどうにか変えていけないだろうかと思う。

美しければそれでいいと思う。

 

ジャズの歌詞は悲しいものが多い。

本当に満ち足りて幸せだったら、音楽なんて要らないのかもしれない。

なんとか生きていくために、私は音楽を必要としている。

 

互いを思いやって楽しく暮らしていきたいと皆望んでいるはずなのに、うまくいかない家族、友人、恋人たち。

でも私がアドラー心理学の技法を使うわけにいかない場合(治療的枠組みが成立していない場合)がほとんどだから、

私はせめて彼らを裁くことはしないで、彼らの苦しみを悲しみたい。

ジャズを聴きながら、いつも彼らのことを思う。

でもそうだ、彼らに向き合っている時に、この悲しくも美しい曲を私の身の内で流してみようか。

決して叶えられることのない悲しみを歌った歌を。

 

私の願いは、決して叶えられることはない。

彼らの苦しみは決して消えることはなく、私の大切な人たちは私を置いて遠くへ行ってしまう。

けれど不思議なもので、それが心の底からわかると陰性感情はほとんど消えてしまう。

私はこの悲しみと共に生きるしかないのだとわかる。

その現実を音楽が慰めてくれる。