My Foolish Heart

今年があと半月で終わってしまう。

仕事はなかなかに忙しく、体調を崩しかけたりしていたが持ち直した。

忙しい割には、というか忙しいからこそ、努めて休憩をし、努めて楽しいことをしようとしている。

時間があればジャズバーへ夜遊びに行き、休みを取っては県外へAIJのアドラー心理学の講座を受講しに行っている。そしてできる限り子どもたちに泊まりに来てもらっている。

 

私の好きなことは、ライブなのだろう。

音楽も、落語も、それから勉強も。

 

対面でのグループワークはとても楽しい。

オンラインでは決して体験できない、視線の交錯や呼吸を合わせること。

グループで同じ時間と空間と物語を共有し、新たな物語を見つけていく過程が治療となる。

どんなワークを行っても、アドラー心理学のグループセラピーではそれが起こる。

そうやってみんなで場を作っていくことが本当に楽しくて、物語に没頭していると、ここがどこなのか忘れてしまう。

時計はただ時間を測るためだけに回っていて、時刻という意味をなくしてしまう。

気づけば瞬く間に日が暮れている。

 

どんなにおしゃべりを重ねるよりも、一度同じグループで共にエピソードを取り扱えば、そのグループでご一緒したひとりひとりの素敵なところがわかる。

皆それぞれが、皆の良いところを探して言葉にしていく。その見つけ方にもその人らしい良さが見える。

事例提供者は、自分が相手のために変わることを決断する。その決断は、どんな小さなエピソードの中にあっても、尊く輝いて見える。

 

書いていて思ったが、私は地元の仲間たちともこの体験を味わえるように、もっと自助グループを開催しなければいけないな。

現実逃避の旅行がてら、遊学してばかりではいけないなあ。

とか言いながら、来月もまた遊学する予定である。

今の仕事の忙しさは、クリスマスを過ぎる頃には一段落するはずだ。

あと少しなので、もうしばらくは自分の息抜きを優先させることにする。

 

 

この職場に慣れるにつれて、この職場の特殊性にあらためて驚いている。

群像劇のただ中にいるような状態だ。

自分にできることをしたいと望むほどに、やり切れない思いを味わう。

でも、そんな中でも、私と相手が美しい物語を作れる瞬間もある。

グループワークで職場の子どもたちとの事例を取り扱ってもらうと、そのことに気づかせてもらえる。

その度に、まだ私はあの子たちのためにできることがあるんだと希望をもらう。

私とあの子たちが良い関係でいられる時間がほんの一瞬でも増えていけば、この世界にあの子たちが所属できる場所が、ほんの一瞬だけでも増えていく。

そのことの意味の大きさがわかるようになった。

 

でもやはり、こうやって言語化することは今の私にはとてもエネルギーが要るようだ。

ジャーナルには日々のエピソードを書いて、相手の良いところを見つけて書いたりもしていて、あまり負担なく続けられている。

このブログに書くときの私の視点はもっと高いメタの位置にあるようで、普段考えていることをまとめ直しているようだ。

その作業は私にとってとても大切だし、ここに書くことは楽しみでもあるのだけれど、負担もある。

 

 

音楽を聴いていると、言語化しなくてよいので助かる。

それで音楽を聴いている。

私の頭の中を音で埋めてしまいたいと思う。

職場にいないとき、最近はそう思う時間が長い。

願っても祈っても、叶わないことばかりだ。

そのことにとても苦しくなる。

 

当たり前なのだけれどね。だって私が変えたいと願うことは、私のことではないから。

私は他の人を変えることはできない。

私が変えられるのは、私と相手とが関わるその瞬間の物語だけだ。

 

 

やはり、まだちょっと疲れているみたいだ。

でも、疲れているときにどうしたらいいのかわかってきたことはよかった。

あまり無理をしなくなったと思うから。