通りすがり

雪が降っている。

あらゆる音を隠してしまおうとするかのように、静かに降り積もる。

すりガラス越しに雪の影が見える。

止めどなく舞い落ちる。今宵の雪は大きい。紙吹雪のようだ。

 

うるさいのは雪溶けだ。

溶けた水滴がぼたぼたと音を立てて、さらさらと水の流れる音が休みなく響く。

あの音を聞くといつも春が近づいてきたことを感じて、寂しくなる。

 

 

あまりものを考えたくなくて、この数日はジャーナルも書いていなかった。

家にいて持て余すひとりの時間は、歌っていた。

歌い始めると数時間でも歌っていられる。

半年ぐらい前に、カラオケのアプリを入手したのだ。

何度も繰り返して歌っていれば、それなりに上達はする。

歌い疲れるまで歌って、それで少し自分に満足して、眠る。

歌うことに集中していると、何も考えなくていいから。

ジャズバーに行けない時は、こうやって自分の機嫌を取っている。

 

でも寂しさの募った昨日と一昨日は、友だちと会う機会があって、本当に救われた。

何をそんなに考えないようにしているのか、見ようとしなかったけれど

わかっていた。

たった1ヶ月だけ私たちの施設に居た家庭が、今日の午前中に別のところへと去って行った。

私は一昨日が夜勤、昨日は明けの休み、今日は午後からの勤務だったから、さようならが言えなかった。

 

その家庭のひとりの中学生の女の子のことが、私はとても好きだった。

当初は私たちのところへ入所する予定だったから、そのつもりで色々な話をしていたのだった。

子どもたちは、大人の様々な事情に翻弄される。

子どもというのは自由ではないのだとあらためて思った。

家庭の中でも自由でいられないあの子が、楽しく通っていた学校から急に転校することになってしまった。

 

学校に迎えに行くといつも、数人の友だちと先生と一緒にバス停のガードレールに並んで、バスに乗って帰る友だちを手を振って見送って、みんなとハイタッチをしてから走って私の方へ来る。

「遅くなってごめんなさい、友だちと喋ってた」

上気した頬がきれいだった。

「いいよ。大事なことだもん。楽しかった?」

「うん。あ、待って!ちょっと止まって。おーい!」

窓から身を乗り出して友だちに手を振る。

あと1週間で転校という日だった。でもまだ友だちには話せていないらしかった。

「お友だち作るの、とても上手だと思うよ。」

「えー、そうでもないよー」

「いや、かなり上手な方だと思うよ 笑」

「ですかねー。お兄にはいつもうるさいって言われる」

「いいところはね、よくないところの裏返しなんだよ。だから、うるさいって言われたら、賑やかで楽しませられるのねって」

「あはは、めっちゃポジティブ!」

「自分のいいところは、自分では気づかないものだからね。そうやって探してみたらいいと思う。」

「うん、そっか。」

「周りからはよくないってことばかり言われたりしない?」

「ほんとそう。」

「それは、いいところと同じ特徴なんだよ。」

「なるほどね。」

 

頼まれている買い物をしたいと言うので、ふたりでスーパーに入った。

「この前ラーメン屋さんに行ってさ、お店の人に挨拶したら、ママがすいませんってお店の人に言って、後でママに怒られた。」

「…ん?なんて挨拶したの?」

「お疲れさまで〜すって 笑」

「バイトの子やん 笑」

「そうだよね。初めて行ったところだったんだけどさ。あれ、お疲れさまですじゃないかあって後で気づいたんだけど。お店の人笑ってたよ。ママは恥ずかしい!やめてってさー」

「あれ、こんなバイトの子いたっけ?って思われそうだね」

「うん。私そういうとこあるんだよねー」

「素晴らしい。ね、人と仲良くなるの上手なんだよ。どこに行ってもやっていけるよ。」

「イエイ!」

 

もう、あと何回話ができるかわからなかったから、できる限りあなたの良いところを伝えたかった。

ふたりで話ができたのはあの時が最後だった。

その後は2回ほど、私が小さい子たちの預かりをしているときに、一緒に遊んでくれた。

小さい子たちを部屋に送っていくねと言って、おやすみを言ったのが最後の会話だった。

そしておそらく、もう二度と、私たちは会うことはない。

 

他の職員さんには、家庭内での辛いことを話したりもしていたそうだ。

私には、楽しい話ばかりをしてくれた。

たまたま彼女が元気なタイミングだったからなのかもしれない。

もっと色々な話を聴きたかったけれど、もう叶わない。

きっとどんなことがあってもどこへ行っても、彼女は仲間を作って、居場所を作っていけるだろう。

でもあまりに、彼女の境遇は困難が多い。

そのことを思うと私は悲しい。

側に居たからといって私に何ができるわけでもないのだけれど、何も変わらないのだけれど、

せめて側にいて、役に立たなくても、側にいたかった。

 

 

この施設は、いつまでも居られる場所ではない。

困難を抱えた人たちが一時的に体勢を立て直すために身を寄せる場所だ。

ただ、入所して退所する普通の場合は、それなりに退所の準備も一緒に行うし、時間をかけて様々に話をすることができる。

入所しない一時的な利用の場合は、もっと、通りすがり。

 

でもきっと、人生はそういうものなのだろう。

私たちだって、いつ再び会えるかどうかも、本当はわからない。

また会えるっていう思い込みで、この物語が続いているという「かのように」で、またねって手を振っているだけなのだろう。

 

寂しいな。

言葉にしてしまったから、よけいに寂しい。

 

雪はもう降りきってしまったらしい。

静かに白く地面を隠している。