「六号病棟」

冬休みが終わった。

子どもたちは夜ご飯を食べてから帰って行った。

宿題は、一応終わらせた模様。

この年齢からやっつけ仕事のできる、特に1年生の次男は大変要領が良くて器用な人間だ。

きっと上手に生きていけるだろう。

私よりずっと社会適応度が高い。

2人とも、働き者だしなあ…。また勝手に劣等の位置に落ちる私。

 

今回は、長男と2人で買い物に行ったり、次男と2人で買い物に行ったりした。

長男は読んだ本のこと、学校の友だちのことなどをずっとずっとしゃべっていて、

次男はウルトラマンのこと、昨年度幼稚園で見つけた虫たちのことなどをずっとずっとしゃべっていて、

私にはよくわからないことがほとんどなんだけど、楽しく聴かせてもらった。

彼らがどんなことに興味を持っていてどんなことが好きなのか、彼らがどんな風に感じるのか、

歩きながら、買い物しながら、よく見えた。

長男は、自分で精算できるレジのアプリ(?)を使って、大変頼もしく買い物を手伝ってくれて、献立の相談にも乗ってくれた。

気の合う良いパートナーのような気がした。

次男は、おもちゃ売り場のフックから落ちてしまっているウルトラマンや怪獣たちを、一つ一つ私に説明しながら、拾い上げては元の場所に片付けていた。

さり気なく、良いことをするんだなあと嬉しく思った。

 

2人と買い物に行けてよかった。

年末に雪道を踏みしめて、3人で雪かき用のシャベルを買いに行ったのも良い思い出だ。

今週はもう雪が融けて、あの日の吹雪が嘘みたいなお天気だったけれど。

私は、買い物が嫌いなのだ。

買い物だけじゃない。家事全般、嫌いなことばかりだ。

でも、彼らと一緒なら、彼らのためになら、楽しむことができる。

不思議だ。

子供っぽい私を、彼らが育ててくれたんだなあと思う。

 

 

 

そう、チェーホフの話を書いていなかった。

色々と衝撃的な話や気に入った話があるのだが、一番印象に残ったのは「六号病棟」だ。

(以下、ネタバレします。)

 

病室の中にいる患者と、病室の外にいる医師。

それがまるで檻の中にいる動物と、檻の外にいる人間のように描かれている。

けれど、精神病棟にいるある患者が話のできる人間だと気づいた医師は、

その患者と話をするために六号病棟を頻繁に訪れるようになる。

それまで自分が患者たちに全く関心を持つことなく、機械的に仕事をしてきたことに気づく。

そしてある日、その医師は正気ではないと他の医師たちから判断されて、その病室に閉じ込められる。

どれだけ訴えかけても、狂人とみなされた自分に返ってくるのは暴力。

そこで初めて、その医師、ラーギンは、患者たちの置かれている状況に気づいた。

 

正気とは、正気とされる人々の共通感覚のことをいうのだろう。

ラーギン医師が人間らしさを獲得していく過程が、そのまま、他の医師たちからすると、狂気に染まっていく過程となる。

この狂気じみた世界の中で正気を保つということの意味を突きつけられる。

 

 

無機質な管理が、あらゆるところへ入り込もうとしているように感じる。

健康のために良い育ちのためにという言葉でもって、教室の中にも、家庭の中にも。

人々のためにという言葉でもって、あらゆる組織の中にも。

私が自由に息をできる場所はどこなんだろう。

私は学校という場所が息苦しくてたまらなかったけれど、学校の外も、学校のようなものに、病院のようなものに見える。

 

…社会適応の高い資格取得のための勉強をしていて、そんな風に絶望してしまいそうになる今日この頃である。

私は、多分、目覚めてからのあのラーギン医師のようになるんだろうと思う。

 

けれど、私はいくつもの美しい物語を生きているから、

この世界がどれほど正気を失っていっても、美しいものを見失わずにいられると思う。

それが狂気の証になるのかもしれないけれど。