Blue in Green

今日は絶対的休日。

疲れているみたいだ。

午前のかなり遅い時間に起きた。

 

朝ごはんも食べずに、友だちと待ち合わせて昼ごはんを食べに行く。

暖かい陽が差す。

友だちはカウンセリング勉強会での学びの話をする。

ひとつひとつ身に染みてわかっていくことの喜びを話してくれる。

私もそんな時があったと思う、多分。

真っ直ぐ進んで行けていいなあと思う。

私は停滞しているわけではないけれど、進んでいないように感じているのだろう。

でも、以前ほど競合的にならずに職場の仲間たちと協力できるようになった私の変化を、

友だちは感じてくれていた。

車の運転も慣れたし。

皆は私を受け入れてくれていると感じられるようにもなった。

話をしていて、私は職場で自分にできる範囲の中で、できるだけのことをやっているのかもしれないと思えた。

 

私は枠を設定することを大事にしているようだ。

だからその枠を踏み越えないように慎重になる。

私にとっては重要なその枠の内外が、他の職員にとっては区別のつかないものであることも多いのだろう。

だって私と価値観が全く違うから、そこに差異を見出せない人もいるから。

彼らも彼らなりに一生懸命に、利用者さんの役に立とうと頑張っていて、

ただ私と違う価値観に基づいていて、私とは違うルートを選んで、私とは違うゴールを目指している。

ゴールは、私のゴールと、そこまでかけ離れてはいないと思うから、歩み寄ることはできると思っている。

私が、彼らに、歩み寄ることができると思っている。

でもそれは私の理想を絶対に実現できないという確信の上での、妥協だ。

協力するためには妥協が必要だ。

それはおそらく、どんな場合でも、大なり小なり必要なことなのだろう。

 

 

友だちと別れてから、また別の友だちと待ち合わせてお茶をしに行った。

町を歩いていると、大好きな方にお会いできた。

太陽のような人だ。

お会いできて今日はいい日です、と私は自然に口にしていた。

私にはこんなに、良い関係の友だちが、大切な人たちが、価値観を同じくする仲間たちがいる。

 

 

職場の皆と私があまりにも価値観と世界観が違いすぎることに、もう何度目か忘れたけれどあらためて心の底から実感して、

落ち込むというか沈み込むというか、様々な意欲が減退していた。

Miles Davisのトランペットがやっぱり好きで(特に50年代)

こういう気分の時は、マイルスのダウナー系の音が心地良い。

多分Bill Evansのピアノもダウナー系なのだろう。

Blue in Green というこの2人の作った曲は、鎮静作用がある気がする。

歌詞の意味とは違うけれど、まるで周り皆が緑に染まっている中、私はひとり青色なんだなと思える。

でも緑に染まるよう言われることもなくて、時々青だからこそできることもあったりして、

緑になれない私はこうやって生きていくしかないんだろうと思う。

でもこういう時に日中ひとりで居るとあまりよくないなと思って、友だちをご飯やお茶に誘ったのだった。

忙しい私の友だちたちが、今日はなぜかタイミングが合った。助かった。

やっぱり今日の私にはBlueを共有できる人たちが必要だったんだと思った。

 

 

お茶をして話を聴いてもらったら、それはしんどいねと言ってもらった。

「溺れかけている人に浮き輪を投げようとしたら、まだ早いって止められてるようなもんでしょ?」って。

その比喩が当てはまっているとすれば、しんどい割にはまだ私はけっこう元気だよね、とも思えた。

 

私にできることがあれば、私はそれを全力でやってみたいと思っているんだろう。

このまま時が過ぎれば、いずれ溺れることは目に見えているのに、

「溺れた」という事実確認が取れてからでないと救出作業には移れない。

ここはそういうところなのだろう。

もしかしたら体勢を立て直して泳ぎ始めるかもしれないじゃないって、思い込んでいたいんだろう。

私はいつも早めに警報を鳴らす。

でもこの職場はあまりに警報が鳴りすぎる日常だから、みんな麻痺してしまっている。

そして、目に見える危険と、精神的な危機とだったら、みんな目に見える危険に目を奪われ、

精神的な危機については後回しになってしまう。

 

私は、精神的な危機を乗り越えるお手伝いをしたいと思っているようだ。

学んできたことを活かしたいし、少しは実践も積んできたし、まさに今目の前に溺れかけている人がいるから。

その溺れかけている人の「助けなんていらない」という言葉を鵜呑みにしてはいけないと思う。

その言葉を真に受けるのは、治療的ではないと思う。

クライアントのニーズに応えるというのは第一優先にしてはいけないことだと思う。

なぜなら、それらは必ず神経症を強化する方に作用するから。

コンプライアンスに厳しい厄介な世の中になっているから、職務と責任を負える範囲とをよく考えないといけない事情もわかるけれど。

 

でも、私がもしも溺れそうになったら、規則やルールを踏み越えてでも、まずは何か掴まれる確かなものを投げてほしいと願うだろう。

誰かに正しい道を示してほしいと願うだろう。

ゆっくり自分で考えるのは、乾いた地面の上に立って、濡れた身体が温まってからでいい。

「まずは黙って温かいものを食べて、よく眠りなさい」って言える、

大人ってそういうことができる人だと思っていた。

でもそんな大人がとても減ってしまったと思う。

正しい道は確かにあると私は思っているようだ。

それは大人が示していくべきだと信じている。

「あなたが考えて自由に選べばいいよ」って、それは寛容に見せかけた無責任でしょう。

権威主義的な育児の方がまだ放任的育児よりも、子どもに善悪の価値観が育つだけマシと野田先生はおっしゃった。

放任的に育った子どもたちが大人になりきれないまま大人になっている。

恐ろしいことだ。

 

 

いや、まだ私は絶望できていないようだ。

絶望してしまえば、多分今より楽になれるけれど。

私には価値を同じくする仲間がいて、私の存在に意味を見出してくれていて、

そして私に意味を与えてくれるから。

私はBlueのままでいいんだって信じられるから。