夜を越えて

数日の連休があって、また子どもたちとのんびり過ごすことができた。

エピソード分析の復習会もできて、子どもたちの友だちも遊びに来てもらえた。

子どもたちは友だちと外食もできたし、博物館にも行った。

夏休みの子連れ生活を満喫した。

 

外食したレストランは、ちょっと変わったお店。

子どもたちも、大切な人と再会。

さり気ない日常が、過去と現在とを繋ぐ。

いつものように喧嘩をしていつものように小さなことで笑い合って、

特別なことなんて何もない顔で、暑いね美味しいねと言いながらたくさん食べて、

帰りに寄った公園で雨が降ってきて急いで帰って、

何もなかったかのように過ぎていったけれど

あの空間で過ごした時間は、あの味は、私の胸にはずっと残るだろう。

多分私の友だちにも、きっと子どもたちにも、あの人にも。

さようならは寂しいけれど、いつか本当に、どこかでまた会えるのかもしれない。

だから人生は面白いって、思ってくれたらいいなと思う。

 

 

エピソード分析は、5ヶ月ぶりぐらいにさせてもらった。

ひどく鈍っているということもなく、みんなで学び合うことができて良かった。

小さな小さな会話から、その人の大切にしている価値観が輝き始めるのがすごいと、

宝探しだなあと思う。

その価値観を自分で大切に磨いていけばいい。

人には人に、それぞれが大切にしている、私とは違う価値観があって、それを磨いていけばいい。

違いを認め合うということを学ばせていただいた。

 

 

とても素敵な連休だったから、その後友だちが帰り、子どもたちが帰って行って

日が落ちてからひとりで夜勤に出かける頃には、私はすっかり落ち込んでいた。

この落ち込みは何なんだろうなと考えた。

アドラー心理学を学んでいく機会をもっと作りたい、もっともっと学び合う時間が欲しい。

そう実感してしまった。

実はオンライン勉強会でも、仲間たちが参加した講座の話を聴くたびにひとりで落ち込んでいたりもする。

私は全然お役に立ててないなって思うのでしょうね。

でもいつか、現実的な未来に、私は友だちと一緒にアドラー心理学を学ぶ場をもう一度作っていこうと思っている。

今回、友だちとそんな話ができた。

それで落ち込んでしまった。

わけがわからないけど、そうなんです。

掲げる理想が高ければ高いほど、今の私との遠さに落ち込む。

でも、考えもまだまだ固まらないけれど、楽しみを「先延ばしにする」ストレンクスのある私は、きっと実現させるだろう。

それまでは、落ち込んだままで、この劣等感をエネルギーにして、準備をしていくのだ。

 

 

職場でも私は本当に役立たずだしな…って思いながら、落ち込んで出かけた。

でも、この感情は憂鬱とは違う。

やるべきことがたくさんある。全然理想に到達しない自分にがっかり。

私にできることは、目の前のひとつひとつをこなして、一歩ずつ進んでいくしかないよね、

という、多分、勇気づけられた状態。

 

 

 

夜勤は21:30から始まるけれど、バスの都合で私は20:45には職場に着いてしまう。

遅番の人2人が22時に帰るまでに、施設中のゴミを集めて、ドアの取手や手すりや下駄箱の消毒をしてしまう。

調理室の外のゴミ置き場に出ると、湿っぽい風が吹いてきた。

 「あ!びっくりした。明日ってゴミの日?」

喫煙コーナーで休憩中の利用者さんがいた。

「うん、明日は可燃ゴミとペットボトル。」

 「ありがと。…ねえ、Mさんってバスで来てるの?」

「そうですよ〜。徒歩と、バスとかJRとか。」

 「えー大変…どれぐらい歩くの?」

「JRの日は朝から40分歩いてる 笑」

 「えー!大変ですね!その40分で色々できるよ…。大変だ〜」

くりくりした大きな目を、もっと見開いた。

「ありがとう。運動になるしね、大丈夫ですよ。」

 「私なんか通勤大変で仕事変えたのに…」

「前のお仕事はどうやって行ってたの?」

 「歩いたり、チャリだったり。歩きは20分ぐらいだったけど。すごいなあ〜」

心配そうに私の顔を覗き込む。

「ほんとに、大丈夫だよ。ありがとう!」

 「うん。いや〜、でもすごいなあ。」

おやすみなさいを言い合って、手を振って、帰っていかれた。

あなたの方がもっとずっと大変な中、毎日本当に頑張っているよって、思った。

彼女に降りかかっている大変なタスクと、それに立ち向かう努力と行動力は本当に素晴らしくて、とても真似できるようなものではない。

でもそれをうまく伝えられなくて、私は大丈夫ってことしか言えなかった。

ちょっとぶっきらぼうだけど優しい姉貴と話した気分だった。とても嬉しかった。

 

…すごいなあと思っていることって、伝えにくい。

それをすっと言えてしまう彼女は素敵だなと思った。

私もそうなれたらいいなと思う。

自助グループでも、友だちづき合いでも、私が素敵だなと思うことを伝えにくいと思うことはあまりない。

おそらく職員という立場が、ものを言うことを難しくする。

私はどうしても、褒めたくないから。褒められた、と受け取られたくないから。

頑張っていますね、偉いですね、すごいですね、そういう言葉を職員たちはみんな投げかける。

それ自体が悪いわけなんてないけれど、

それは、私たち職員が判定を下す立場で、利用者さんは庇護されて努力を観察される立場、

ということを強化するようなコミュニケーションになりがちである。

私はそれが嫌なんだ。

そしてそんなことを思っている限り、私はここの職員としてポンコツでしかいられないなあと思うのだ。

仕事のできる良い職員には、到底なることができない。

 

 

私が彼女の立場なら、とてもあんなに頑張れないよと思う。

そういう気持ちを素直に表す言葉が、まだ彼女に対して私は見つけられていない。

そうだ、他のある利用者さんには、この前、買い物同行した帰りに伝えることができた。

ありがとうと目を見て言ってくれたとき、「いいえ、本当に、よく頑張っておられると思うんですよ…」って、ぎこちなく言った。

言外の私の気持ちを、その彼女は受け取ってくれたと感じられた。

それ以来、すれ違う時に交わす一言だけの挨拶も、私たちがつながっていると感じられるようになった。

 

 

静かな夜を超えて、涼しい朝が来て、

ほっとしてセコムを解除して、駐車場のチェーンを外したりゴミを捨てたりした。

早番に引き継ぎをして、帰ろうとすると、両手にゴミ袋を持った別の利用者さんと一緒になった。

以前から時々、私に対して当て付ける態度を取ることがある人だ。

「おはようございます!」と言うと、俯いてちょっと嫌そうに会釈を返された。

「開けますよ。」と言って門扉を開くと、顔を上げて、目を合わせてくれた。

「あ、ありがとうございます。お気をつけて〜」と声をかけてくれた。

「はい、失礼します!」と、思わず体育会系風に返事をした。

 

本当に本当に、消えて流れていってしまうような小さなやりとりだ。

相手にとってはどうでもいいことだったかもしれない。

でも私は、とてもとても嬉しかった。

私は寂しがり屋で良かったじゃないって思ってしまう。

 

 

物語を書き換えていこう。

寂しさも、落ち込みも、それを心の底から感じ切ろうと思う。

他人と共に生きるということの修行なのかもしれない。