No music,no life

連休中、AIJ主催のアドラー心理学の心理劇(サイコドラマ)のワークショップ「かささぎ座」に参加した。

昨年2月に神戸の基礎講座理論編を受講して以来の、受講だった。

講座に出かけるのは本当に楽しい。

親しい仲間との再会、新しい仲間との出会い。

そして、新しい私との出会い。

 

私の身体には音楽がめぐっているんだと感じた。

確かにそうだ。日によって、聴きたい音楽、流したい音楽が異なる。

好きな歌手の声であっても、聴きたくない日があったりもする。

たまに聴きたくなる曲があったりもする。

日によって、食べたいものが異なるように。

私にとっての音楽は、頭に流れるものではなくて身体が欲するものなのだ。

だから、どうしても好きになれない類の音楽もあったりもする。

 

ああ本当に私はわがままだ。好き嫌いがとても多い。

でも、それが私なのだとも実感した。

妥協できないことがある。

それはどれも、私にとって大切な価値観や、こだわり。私が欲するものについて。

他人がどのようにしていても何を大事にしていても、今はそんなに気にならなくなった。

私は、私の好きなものを、大事なものを、追求したいだけ。

その自由がある今の私の生き方が、私は好きだ。

 

価値観がまったく違う人々の中にいても、彼らの価値観を変えようとは思わず、そして私の価値観を理解してもらおうとも思わずにいられるようになった。

違う価値観を持っていても、私たちは協力して仕事をすることができるし、協力して暮らしを作っていくことができる。

私は相変わらず周りの人々の価値観を好ましいとは思えない。

だけど、その価値観だけが彼らの全てではないから、私たちは隣人として、お付き合いすることができると知った。

価値潔癖な私が、少しだけ緩んできたのだと思う。

人々に対して寛容になったというよりは、自分が異質であることを認められるようになったという方が正確な表現かもしれない。

異質な私であっても寛容に受け入れてくれて、仲間として共に仕事をしてくれる職場の方々に、仲間として暮らしを共にしてくれる利用者の方々に、本当に感謝している。

そんなありがたい仲間のことを、裁こうとは思えなくなった。

私とは違うことを大切に思う人たちなのだ。

ただそれだけなのだ。

 

かささぎ座の魔法はまだ解けていないのかもしれない。

私とは違うことを大切に思う人たちなんだなって思ってお付き合いしていると、この方たちひとりひとりが、とても愛おしく思える。

それは生き辛いだろうな、とか、それは苦しいだろうな、とか、それは不便だろうな、とか、ただそのように感じる。

そして、この方が少しでも安心して生きるには、今私には何ができるかなと思う。

大してできることがないのはわかっている。

わかっているけど、せめて、今この瞬間、あなたを裁かずに、笑顔でお話を聴こうと思う。

そう思って利用者さんとお付き合いしていると、最近、色んな方が私に「話を聴いて」って言ってきてくださるようになった。

お話しの内容は、とっても神経症的だったり、了解不能だったり、色々する。

どれだけ自分が大変か苦しいか、どれだけ周囲が酷いか、言いつのったりもされる。

でも、私にお話ししたいと思ってお話ししてくれることが、私はとても嬉しい。

警戒心の強い方々が、私に心を開いてくれたということが、この方たちにとってとても大きな意味を持つとも思う。

私たちの関係が、良いものとして築かれてきたのだと思う。

 

立ち話が1時間ぐらいになったりもする。

その間に、自分自身でグチ話の中に、よかったことを見つけてしまったりもする。

私がわざとそのように水を向けたりするからなんだけどね。

強く握りしめている苦のもとの自己執着には絶対に触れないようにして、周りの当たり障りのなさそうなところだけ、別の明るい色に照らせるかなって働きかけてみる。

子どもたちの成長、母の頑張り。共に暮らしている私たちは、いくらでも、小さな小さなよかったことが見つけられる。

 

多分、きっと彼女たちは変わらない。だって、変わることを望んでいないから。

でも、その決断をする彼女たちを、私は裁きたくないと思えるようになった。

私は、変わらずに不健康でいる彼女たちのことも、愛しく思えてしまうようになった。

変われることは本当に素晴らしい。変わろうという決意は本当に素晴らしい。

でも、変わらない決意をしていること、そのことを理由にして、私が彼女たちを憐むのはおかしいと思えるようになった。

この方は、そういう生き方を選んだんだ。

どんな生き方であっても、それはその方の大切な人生だ。

決して尊敬できるような行動をしていない方達であっても、そのハードな人生を生き抜くことも、ひとつの尊い生き方だと思う。

 

 

文章を書くときはたいてい音楽をかける。

今日は言葉が欲しくない。

ichikoro、SOIL&”PIMP”SESSIONS、tsukuyomi、bohemianvoodoo、toconomaなど、楽器のみの音楽を選んでいる。

こんな日とは違って、歌詞がとても重要になる日もあれば、歌詞はどうでもいい日もある。

クラシックを欲する日もあるけれど、今日は違った。ジャズの日のようだ。

 

 

 

2歳のYちゃんの生活全般のお手伝いは、徐々にお母さんに返していって、

とうとう週に数日の入浴のお手伝いのみになってしまった。

「なってしまった」なんて書いてしまった。

一緒におままごとをしたり、絵本を読んだり、歌ったりして数時間を過ごすことも、お風呂に入れてあげることも、もうあまりなくなるのかと思うととても寂しい。

支援職としては、おそらくあるまじき感想。

母子がうまく過ごせるようになったことはとても喜ばしいことだ。それはもちろんだけど。

 

ままごとの野菜を切りながら、保育園で歌った歌を、口ずさんでいるYちゃん。

「あ、それはチューリップだね!」と私は言って歌う。

Yちゃんは目をきらきらさせて大きな声で歌ってくれる。

歌詞を覚えているのがすごいなと思う。とても賢い子だ。

ゾウのブロックを持ちながら、コンコンコン、クシャンと言う。

「コンコンクシャンのお歌、知ってるの?」と私は言って歌う。

Yちゃんはびっくりして、にこにこして、クシャン!のところで両手でくしゃみをする真似をする。

きらきら星、大きな栗の木の下で、あわてんぼうのサンタクロース、メリーさんの羊、アイスクリームの歌…

私たちは何回も何回も、一緒に歌った。

歌い終わるとYちゃんが笑顔で「もういっかい!」と言ってくれるから。

あるときはYちゃんが小さなピアノを弾きながら。あるときはYちゃんが手拍子しながら。

あるときはYちゃんが絵本の絵を指差しながら。あるときはYちゃんが踊りながら。

私は子ども向けの歌をたくさん歌うママさんコーラスに入っていて、本当に良かったと思った。

Yちゃんのために、私は歌を歌えるようになったんだと思った。

言葉の遅れが目立つと言われているYちゃんにとって、一緒に歌った体験は、きっと大きな意味を持つだろう。

いや、確かに少し言葉は遅いのかもしれないけれど、私たちは何も困ることもなく、きちんと意思疎通をし、コミュニケーションを取っていた。

私たちは同じ時間を、同じように幸せに、音楽と共に過ごした。

 

 

私のエピソードをサイコドラマで扱っていただいたとき、音楽を使っていただいた。

私には相手役との思い出に、たくさんの音楽があるなと気づいた。

それと同時に、私には、他のたくさんの人たちとの思い出にも、たくさんの音楽があることに気づいた。

音楽がどれだけ多くの人と私とを結びつけてくれたかということに気づいた。

そうだ。ああ私は、音楽を通じてYちゃんとの幸せを作っていると感じた。

そして今この瞬間も、このサイコドラマを共に作り上げているこの仲間たちと、私は音楽を通じて結びついているんだと感じた。

その幸せな感覚は、あまりに大きくて、私から言葉を奪い、私を動けなくするほどの力だった。

 

優子先生が、私の職場の話について、「まるで『Sound of music』のマリア先生みたいねって思っていますよ」と言ってくださった。

本当にそうであればいいなと思った。