価値潔癖

昨日は野田先生の論文のオンライン勉強会、

今日はオンライン勉強会で練成講座やカウンセリングの講座のシェアリングをした。

今日の夕方から子どもたちが来てくれた。月曜の朝までいる予定。

 

練成講座の後、オンライン勉強会の他は私的な生活に閉じこもっていたが

昨日からパセージ開催に向けて動き始めた。

 

私は動き始めるまでにエネルギーと時間がかかる。

エンジンが一度かかると、今度はなかなか止まれなくなる。

そういう意味でも不器用な人間だ。

エンジン停止中は動きが見えないかもしれないけれど、(ブログも休んだりするし)(以前よりはマシになったと思うけれど)、ご心配なさらぬよう。

パセージもプチパセージもカウンセリングも、それからパセージプラスも、私にできることはなんでもし続けようと思っている。

 

プチパセージの予定を立てて広報もした。チラシも作り直して印刷した。

あ、自助グループのブログにまだ書いていない。

あまりにコモンセンスがなさすぎて、どの日程も休日になってしまった。

(平日でもご希望があればプチパセージ開きますので、ご希望の方はご都合の良い日程をお知らせいただければ、できる限り調整してみます。)

色々と不備はあるが、遅巧より拙速だ。

 

コロナ禍のため、あまり大きな集まりはできないけれど

こじんまりと、細々と、続けていこうと思う。

こんなときだからこそ、お役に立てる場になれるかもしれない。

 

 

練成講座で心理療法の入り口を体験させてもらって、それからオンライン勉強会で心理療法についての論文をみんなで読むと、

心理療法で何が行われているのか、少しつかめたような気がした。

クライアントさんのライフスタイルを触るということは大変危険なことなので、

まだまだ私には心理療法をすることはしてはならないことだと思っていた。

けれども、私たちにはエピソード分析がある。

エピソード分析という方法を用いて、エピソード分析以前の心理療法を見てみると、

何が行われているのか、どういう理論に基づいて動いているのか、見えてきた。

「見えてきた」というのは、例えば「譜面をよめた」、という程度のことである。

まだその譜面を、鼻歌で歌うほどにもわかってはいない。

けれど、私は心理療法を恐れなくてもいいと思えるようになった。

こうやって仲間と共に、師のもとで学び続けることで、

いつか心理療法ができるようになりたいと思う。

物語が変わる。劇的に美しい物語に。それがたまらなく面白いと思う。

人はなんて個性的に、なんて創造的に生きているんだろうって感動する。

 

 

 

本当を言うと、友だちがアドラーをやっているから私もやっている、という学び方は、

友だちが吹奏楽部がいいって言うから私も吹奏楽部に入った、ということと同じようなもんだと思っていて、

私はそういう決断の仕方をとても軽蔑している。

けれど、そうやって所属したい人がいるのも事実だと思う。

きっかけがそういう、お友だちとの関係であったとしても全くかまわないんだけど、

その後アドラー心理学を学び続けるという決断は、常に主体的に決断し続けるべきだと

私は思う。

 

私は友だちの少ないUnfriendlyな人間だ。

Friendlyな人々とは、人づき合いにおいて大いに私的感覚がぶつかり合うのだろうと思う。

どちらが良いとか悪いとかじゃないんだろう。

でも私は、大事にしている思想も様々な態度も言葉遣いも趣味も、私にとって大事な価値観が一致する人たちとだけ、親密になりたいと思う。

その価値観が一致できない人たちとは、関わり合いになりたくないし、傍に寄りたくないとまで思う。

私は極端に価値潔癖なのである。

 

 

そんなことでは社会不適応になるので、

自分と異なる価値観の人々とも談笑できるぐらいには頑張って成長したけれど、

(パセージリーダーになるための学びの過程で身につけたことだと思う)

でもやっぱり私は現代日本では、社会不適応者なんだろうなと感じる。

アドラー心理学に心酔する人間なんて、マイノリティだ。

だからそれでいいんだと思う。

現代社会に生きづらさを抱えている誰かが、アドラー心理学で自分を救う術を見つけられるようにと願っている。

そのためには、私のように現代社会の価値観にNOと言う人間がいることにも意味があるのかなと思える。

多くの人たちに好かれたいとは望まない。

ただ、もう、戦うことなく、お互いに別々の場所で、それぞれの幸せを実現していければと思う。