今日はカウンセリングでした。
やっとエピソード分析を使えるようになってきたかなという実感が持てました。
アドラー心理学の思想の上に理論があって、その上に技術があると思います。
エピソード分析はマニュアル的なので、手順通りに進めていくことができてしまうのですが、
それはカウンセラーがクライアントさんの物語を理解していなければしていないほど、
手順通りにどんどん進めていってしまえると私は思うのですが、
そういう意味で、気をつけて使うべき技法だと思います。
もちろんカウンセリングの技法はどのようなものであっても、気をつけて使うべきものだと思います。
何を意識するべきかというと、アドラー心理学の思想です。
すべての源泉であるアドラーの思想を理解することなく技法を使うということは、
アドラー心理学ではないものをアドラー心理学という名で広めることになると思います。
アドラーは19世紀後半から20世紀前半にかけてウィーンに生きたユダヤ人です。
女性に参政権はありませんでした。
精神病患者たちはひどい環境に閉じ込められていました。
生まれや育ちが人生のコースの選択にほぼ直結する時代でした。
そんな時代に、女性は男性と平等であると言い、
子どもは大人と平等であると言い、
精神病患者は治療者と平等であると言い、
実際にそのように振る舞ったアドラーの思想は、
きれいごとではなくておそろしく厳しいものであると私は思います。
アドラーの思想を理解しているかどうかは、
どのようにして判断できるのでしょうか。
相手と平等で対等な位置に立っているかどうか、
それはその人のしていることを見ればわかります。
アドラー自身がそのように書いています。
私が最近元気を失っていたのは、
アドラー心理学という名のアドラー心理学でないものがあまりに広まっていることに
絶望しかけていたからです。
あなたが思っているアドラー心理学は、
私の学んでいるアドラー心理学ではないのかもしれません。
私がパセージやカウンセリングや自助グループで細々と仲間たちにアドラー心理学を伝え、共に学んでいることは、
世の中の流れからすれば無視できるほどの小さなことであって、
無駄なことなのかもしれないという考えに窒息しそうになっていました。
でも、パセージのメンバーさんたちが、カウンセリングのクライアントさんたちが、
アドラー心理学に出会えてよかったと言ってくださり、
勇気を持って実践をしてくださり、
子どもさんたちとの相手役さんたちとのより良い関係を築いていっておられることを知って、
私のこのささやかな活動が、誰かのお役に立てているのだと自分で信じることができて、
やっと私は元気を取り戻してきたように思います。
アドラーの思想を鑑みることをしない人たちは、どうかアドラー心理学という名前を使わないでください。
そうは言っても、人の行動を変えることはできないのです。
アドラーの生きた時代から既にアドラー心理学はアドラー心理学として存続することが難しかったのですから。
多くの人がアドラーの発見を持ち出したので、アドラー心理学は開けっ放しの宝箱と呼ばれているくらいです。
私はまた、野田先生の名を、アドラーと同じように、
野田先生の思想と違うものに冠されるのも見なければならないでしょう。
私はとても悲しくて、許せなく思います。
けれども
これは私に降りかかるタスクです。
私は野田先生の弟子として、アドラー心理学を学ぶ者として、
責任を引き受けて生きていきます。
正しい名を正しいものに冠し、
それを学びたいと願う人たちと共に学んでいけるように、私にできることをしていきます。