雨は止んでいた。
夜になってから再び家を出て、別世界への扉へ向かった。
今晩はソロピアノのライブ。
Hさんがピアノを響かせると、
どうしてかわからないけれど、ここが世界の中心なんだと思えてしまう。
音楽に浸りたいのは現実逃避のためなのに、現実に向き合う勇気をもらってしまう。
私には大切な場所や人がこうやってまた増えていく。
大切な友だちがまた1人、遠くへ行ってしまう。
私たちはまた会えるし
久しぶりにまた会ったら、いつものようにたくさんの話ができるだろう。
2人でお茶をしていつまでも止まらないおしゃべりをする私の友だちは
何人遠くへ行ってしまっただろう。
でもみんな、行ってしまう前に、もう一度会おうって連絡をくれる。
忙しい暮らしの中で私たちが手を取り合う時間は本当にわずかだけれど
あなたにとっても大切な時間であったなら嬉しい。
そう思いながらも、ひとりの部屋に帰ると、ひとり取り残されている気がしてしまう。
そんなはずはないのに。
さようならは嫌だ。
また会えるとわかっていても。
職場ではまた色々なことが起きている。
アドラー心理学の理論に当てはめて考えると、
自分のすべき責任を果たすことから逃れるために一生懸命に神経症的策動を行っているのだと
推測できることが多い。
子どもたちはいじらしいほど懸命に、不適切な行動をすることによってなんとか自分の存在をアピールして、所属しようとしているんだとわかる。
そのことを、今日は初めて上司に伝えてみた。
あくまで私個人の意見ですが、と前置きをして。
「彼が不適切な行動をしているのは、
他に良い方法を思いつかないからか、他の良い方法は自分にはできないと思っていたり効果がないと思っているからであって、
今のこの状況を打破したいと思って、彼なりに一生懸命だからだと思います。
彼の言っていることの辻褄が合わないのは、彼自身も十分にわかった上で、決断したくなくて、責任逃れをしようと足掻いている表れだと思います。
彼の意思を尊重するというのは支援の方向性として当然ではあるけれど、
今の彼は決断できる状態ではないということを、関係機関にもわかってもらう必要があると思います。
彼に決断を迫ると、余計に苦しくなって、もっと派手な不適切な行動を起こして、より責任から逃れようと必死になるように思います。
それはみんなにとっても困ることですし、彼にとっても苦しいことになります。」
上司は真剣に聴いてくださった。
担当の職員さんたちも、今が変化を起こすチャンスだと思っているようで、
別の視点からの私の意見はありがたいと言ってもらえた。
これから、どうなるかはわからない。
彼がすべてを誤魔化すことをやめて、少しでも自分の人生に向き合えるようになればいいなと願う。
とても時間はかかると思うけれど。
彼は今、おそらく、底打ち状態になったのだろう。
それは彼にとって大変過酷なことだ。
でも、ここから回復していけるはずだ。
底打ちしなければ、快方へは向かえないものだろうから。
最近よく思う。
私たちが利用者さんたち子どもたちのためを思って様々に行うことが
相手を甘やかし、相手が取るべき責任を肩代わりし、相手がすべきことから逃げ出すことを手伝っているのではないかと。
たとえそうであったとしても、相手の時々の状態によっては必要なこともあるとは思う。
しかしいつしかこの甘やかしの日々に慣れさせ、それまで持っていた責任感を奪ってしまっている気もする。
私がこの状況をどのように変えられるのかは、わからない。
今の私に思いつくのは、いつもと同じく、馬鹿げたような些細なことでしかなくて
ひとりひとりの利用者さん子どもたちの、良いところ、役に立てるところを伝えるということ。
責任を果たせるように勇気づけるということ。
…そして毎日、ひとり挑戦してみては、あまりに無謀なことに思えて落ち込む。
社会的に、心理的に、医療的に、様々な困難な状況が重複している人々が
健康的に貢献的に生きていくことは、本当に難しいことだと実感する。
私には無理だ。
だけど、私はひとりきりではないと思えるようになった。職場においても。
他の職員さんたちは皆、アドラー心理学の理論とはかけ離れた考え方と世界観を持っているけれど、
目標は私とそんなに違ってはいない。
みんな苦しみながら、少しでも良い方向へ向かえるようにと熱意を持って頑張っている。
それは私と同じだと思えるようになったから、
私の意見が採用されないとしても、上司に私の意見を話して、
今後決められた方針がどのようなものであってもそれに沿ってみんなと共に頑張ろうと思えた。
不適切な行動を強化していく負の循環が回り続けるのを見ているのは辛い。
無駄に空気を読んで従順な私がいる。
私にそれを断ち切ることはできなくても、この負の循環という構造については、話すことができるかもしれない。
そうやってアドラー心理学の知恵を広めていくことが、私の責任なのかもしれない。
私はみんなに信頼してもらえてないからまだできない、という言い訳は間違っていて、
本当は、私がみんなを信頼していないからだと気づいた。
このようにいつだって自分にブーメランが返ってくる。アドラー心理学はまったく厳しい。
しかし、平等の位置を、人々が協力して生きる理想状態を、私は描くことができる。
まだ私は相手と手を取り合える理想を信じているから。
まだ私は絶望していない。
理想状態を叶えてくれる音楽に浸ると、理想は実現できると思い込みそうになる。
その思い込みの力で、私は自分にまだできることがあるだろうと思えてしまう。
一瞬一瞬を、一生懸命に生きている私を、バカだけど好きだと思える。
今晩の音楽が終わってしまっても、頭の中で音楽が消えてしまっても、
私の理想は消えない。
消えそうになったら、また夜に世界の中心のピアノを聴きに行く。