砂漠

今日は絶対的休日!

昨晩友だちにダメ元で連絡してみると、なんと友だちもオフ日だと言う。

午前中から優雅にお茶してランチして、贅沢な時間を過ごした。

仕事のことなども色々聴いてもらうことができて、とてもありがたかった。

オンライン勉強会でも、仲間たちに話を聴いてもらい、アドラー心理学の実践について話し合うことでとても支えられている。

(もちろん話をするときは個人情報保護のために細心の注意を払っている。

 このブログに書けることも、とても限られてしまう。)

 

一緒にアドラーを学んでいる仲間にこうやって話を聴いてもらえるから、私は今の職場でなんとかやっていけるのだと思う。

善意でもって悪循環を生み出してしまう構造がそこここにあるけれど、

アドラー心理学を知らない人たちにそのことを伝えても、私がみんなの仕事の邪魔をし、私とスタッフとの関係を悪くしてしまうだけだろう。

パセージ7章の応用だ。

アドラーを学ぶ気のない家族が違う方針で子育てをしている場合、家族にアドラーを宣伝しても良いことは何もない。

家族の良い意図を見つけて、感謝して、とても素敵なことだと思うということをお伝えしながら、

自分自身は子どもに対してパセージを実践し、子どもと良い関係を築くように努める。

そうしているうちに、家族が、どうしてそんなに良い関係を作っていけるの?と疑問に思って、私の行動をモデルに行動を変えるようになったり、質問したりしてくれるようになる。

でもそれは、私と家族とが良い関係を築けている場合に限られる。

そんなことがパセージの7章には書いてある。

まずは私が、スタッフのみんなを尊敬し、信頼し、一致できる目標に向かって協力して仕事をし、良い関係を築いていくことが必要だ。

 

 

 

私の価値観や方針とは違うけれど、素敵なスタッフがたくさんいる。

私にはとてもできないなと思うような、尊い仕事をされる方がたくさんいる。

利用者さんたちにとって、今、必要なことなんだろうなと思う働きかけがたくさんある。

でも、長期的に利用者さんたちの自立ということを考えると、このままずっとずっと続けていては、いつまでもこの支援が必要になることが予測できてしまう。

いや、そういう要支援の枠組の中の閉鎖的な世界で生きていくというのも、ひとつの選択肢なのかもしれない。

そうでなければ生きていけない人がいることもわかる。

そうやって互いに互いを必要とし合いながら、その世界を作っていっているのかもしれない。

そのことについて私が望ましくないと判断しているのは、ただ単に私が自立と自由を何よりも大切な価値として掲げているからにすぎないのかもしれない。

 

でも、尊い仕事だと思うけれど、けれど私は、福祉職というのは必要悪だと自覚すべきだと思う。

そうでなければ、社会的に作られてしまった支援の必要な人たちを、自分の優越性の目標の達成のために利用することになってしまうと思うから。

支援を受ける人々の精神が、社会システムという人工物に飼い馴らされてしまいそうだから。

それは人間的な生き方ではないと、健全な精神のあり方ではないと、私は思うから。

 

反抗心旺盛な、不適切な行動をたくさんする元気な子たちのことが私は大好きだ。

なんて健全な精神で、誇り高いんだろうと惚れ惚れする。

不適切な行動をしなければ所属できないと思い込んでいる時点で、とても勇気がくじかれているのは確かだけれど、

病気を使ったりもせず、嫌なことは嫌だとはっきり主張する。

人間らしくてエネルギーがあって、自分のしたいことがあって、キラキラしている。

その素敵なところを建設的に使えるように、

生意気なあなたのままでちゃんと所属してちゃんと貢献していけるんだということを、信じてもらえるように、

私は良い関係を築いて、働きかけていきたいと思っている。

 

そういう子たちの中で、発達障害だとか適応障害と診断されて薬を処方され、落ち着かされている子どもたちが、今とてもたくさんいる。

彼らのあの輝く反骨精神を鈍らせていくことを、私は良いこととは思えない。

従順な家畜を育てていくことが教育の目的とは思えない。

けれど、そこまで意図してはいないとしても、

その場しのぎの現場の対応のもたらすものが、

子どもたちが誰かの支配の下で罰せられないように姑息に生きることや、監視の目を盗んでヒールとして生きることにつながるように思えることがある。

 

 

 

ある低学年の女の子が不機嫌になって、滑り台の上からおもちゃを投げて、壊してしまったことがあった。

どうしよう、職員さんに怒られる!と、みんなが動揺した。

それまで賑やかだった中庭が、急に静まりかえった。

一緒にそこにいた私は、そういうとき「職員さん」の数に入れられていない模様。

「いいでいいで、それは俺がやったってことにしといたらいいから!俺いっつも怒られてるから、俺が怒られてやるから!それでいいから!」と、

私に訴える暴れん坊の男の子の目は、とても輝いていた。

ほんとにいい奴だね、君は。

怒られる/怒られないが、この子たちの判断基準になっているんだということを目の当たりにした。

でも、失敗してしまったときは、怒ったりせずにどうしたらいいかを一緒に考える大人がいる世界に生きていてほしいと思った。

自分が失敗したことの責任は、きちんと自分で負える人になってほしいと思った。

こんなに素敵な彼が、いつも悪いことばかりする乱暴な子、とレッテルを貼られてしまうことが、それでいいんだと彼自身が思っていることが、悲しかった。

 

「そっか、優しいんだね、ありがとう。」と彼に言った。

Mくん「いいでいいで、俺いつものことだから慣れてるし!」

「でもね、今壊してしまったのはSちゃんでしょう。Mくんではないでしょ?」

Mくん「そうだけど、俺ってことにしといたらいいから!」

「私は、嘘は良くないと思うんだ。Sちゃん、これからどうしたらいいと思う?」

Sちゃん「…滑り台からは、投げない。」

「ありがとう、お願いします。これは、どうしたらいいかな。後でTさんに修理してもらえるようにお願いしておこうか?」

Sちゃん「うん、お願い。」

「わかった。Sちゃんがわざと壊したんじゃなかったの、知ってるよ。失敗は誰でもしちゃうことだから、大丈夫。」

Sちゃん「うん…」

みんなの緊張がほどけたのを感じた。

 

うちの子たちは誤って壁に穴を空けてしまったレベルで、怒られることに緊張するけれど、

この子たちは誤っておもちゃを壊してしまったレベルで、怒られることにひどく緊張する。

激しい罰でもって育てられてきたことがわかる。

もちろんここの「職員さん」たちは、決して激しく罰したりすることはない。

そういう風に育てられてきた子たちだということをよくわかっていて、みなさんとてもよく気を配って優しく子どもたちに対応しておられる。

ごめんなさいを言うようにうながし、滑り台の上から物を投げてはいけませんよとお小言を言ったり、物は壊れるもんだから仕方ないよと慰めたりされる。

その対応を悪いとは言わない。極めて一般的だろう。

私が学んできたアドラー心理学の子育てが一般的でないのだ。

でも、一般的な対応から子どもは、今度からは失敗しても見つからないようにしようと決心すると思う。

自分で失敗の責任を取ることを学べないと思う。

 

パセージの模範的対応としては、

失敗した後始末をどうしたらいいか子ども自身に考えてもらって、自分で修理をお願いしに行く、までがセットだと思う。

でも、それはまだ少し先の目標のような気がした。

今、この子たちに学んでもらいたいことは、

まず、失敗は不適切な行動ではありませんということ。

大人は仲間だよということ。

正直に生きるということ。

自分の失敗について自分で責任を引き受けるということ。

…ああ、それでも私はたくさんのことを学んでもらいたいと欲張っている。

 

たくさんのことを子どもたちに学んでもらいたいと思っている。

こちらが適切に対応すれば、きっと学んでくれると思う。

子どもたちが学んでいないのは、こちらの対応がまずいからだと思う。

いつだって子どもたちには良い意図があって、所属に向かって懸命の適応努力をしている。

私は心からそう信じている。

 

そのことを、彼らの良い意図をちゃんと見ている私を、素敵ですねと言ってくれた友だちに、感謝している。

彼らの役に立つような働きかけを、本当に本当に些細なことだけど、私はできているのかなと思えた。

砂漠に水を撒くようなものだ。

相手を変えることは目指すまい。