アドラー心理学の特徴は、個人を社会の中に組み込まれた存在として扱うところだ。
(これはアドラー心理学の5つの基本前提のうちの一つで、社会統合論という。)
アドラー心理学を知らない方も、このことを当たり前のように思われるかもしれないが、
一般に心理学は、個人を個人のままで取り扱う。
一般に心理学は、個人を取り巻く環境を考えるけれど、
個人が常に環境から働きかけられ、環境に働きかけている、個人は止まっていなくて動いているものだ、とは考えない。
動かない個人というものを想定するから、個人についての情報を集めれば集めるだけ、個人について正確なことが理解できると思い込む。
ここから先は私の意見だが、
アドラー心理学では、個人と相手役との関係を見ることで、その個人のパターンを理解できると思い込んでいるのだと思う。
影響の与え方にも、影響の受け取り方にも、個人に特有のパターンがある。
そのパターンは各個人が複数持っているかもしれないけれど、
それぞれのパターンは、個人が個人と相手役との関係によって選び、使い、作っていくのだと思う。
ここまでは個人と環境(対人)について。
個人の内部についても、アドラー心理学は動的に考える。
常に、人は目的に向かって行動すると考える。
(これはアドラー心理学の基本前提のうちの一つで、目的論という。)
ここからは、ベイトソンを学んでいる最中の私の意見。
止まっている人間なんていないのだと思う。
私たちの細胞が毎日毎日入れ替わるように、その入れ替わりは私たちを生かすために秩序立っているように、
私たちの精神も、毎日毎日秩序立って動き続けているのだろう。
私たちは時間と空間の中に生きているから。
時間というものを、私たちはすぐに計算の外にやってしまう。
動くものは計算しにくいからだ。
物理学だって、投げられたボールを一旦止めてから計算する。
でも、理論的には時間を止めて微分で計算できても、実際の投げられたボールは、地面に触れるまで放物線を描き続けている。
どのように秩序立ったパターンをなぞっていくかというと、
電気回路のようなものを私はイメージしている。
マイナーチェンジを繰り返しながら、相手役との間により安定的な循環を作っていくのだと思う。
負のフィードバックがない限り、悪循環はより悪く、好循環はより好ましく、循環していく。
今日のミーティングで、私の職場の方たちも、先日の私の中学生のAちゃんに勇気づけができたことを、良い関わりができていてよかったと認めてくださった。
それ自体は嬉しいことではあるのだけど、これからも私や他のAちゃんと仲の良い職員が、1対1で関わりを持っていってください、と言われ、
少し危ないように思っている。
結構複雑な家庭の問題がある子どもさんなので、Aちゃんに働きかけたことは、そのまま妹のBちゃんにも影響を与え、
それが家庭内でまた彼女たちの神経症的な復讐のパターンの回路をぐるぐると回してしまいそうなのである。
ちなみにBちゃんは、私が先月注意喚起を失敗してから、私に対して大変攻撃的な態度を取り続けている子である。
私がAちゃんと仲良くなればなるほど、Bちゃんは私に対してより敵対的になるだろう。
そしていつも対立しているこの姉妹の悪循環に、私は都合の良い喧嘩の種として組み込まれ、使われていくだろう。
私には何もできることがないなあと思う。
もしも心理職として彼女たちと関われるのであれば、じっくりと話を聴いてカウンセリングをしてみたいと思う。
賢い子たちなので、もしも私のカウンセリングを望み、協力してくれるのであれば、一緒に冒険ができると思う。
でも私はその手が封じられているので、ただ彼女たちが気が向いた時に彼女たちの話を聴くことしかできない。
他の職場の方たちは、2時間でも3時間でも、困ったことや元気のないことを受容と共感で聴き続け、こうしたらいいああしたらいいとお説教を言い、それができないと言われると、じゃあどうやったらできるかな、と支援計画を立てていく。
私とは全く違うものの見方で動いている。
私は心頭滅却して、支援計画を遂行するお手伝いをする。
一生懸命に、職場の皆さんの良い意図を見ようとする。
しかし不適切な側面に注目しまくるから、どんどん不適切な行動がエスカレートしていっている場合が多い。
そんな中で、私が少し頑張ったぐらいで、子どもたちのパターンが変わったりなんかするわけがない。
でも、何か少しでも、良い関係を保てたという体験とか、学びとか、得てくれたらいいなと思う。
多くの面で勇気をくじかれている子どもたちだ。
少しでも、勇気づけることができればと思う。
ああでも、ほど遠いなあ。
私は良い影響を与える、役に立つということを優越性の目標として持っている。
影響を与えられない、役立たずであるという耐え難い劣等の位置を味わう日々だ。
本当に、良い修行だ。
私は手を縛られた状態で、口も閉ざさなければならない。
なぜなら、私が良いと信じていることを話してしまえば、この施設の構造は根底からひっくり返ってしまうから。
利用者と職員の関係は、おそらく、囚人と看守という関係が一番近いから。
この状態で、私はどれだけのことができるんだろう。
話を聴いて、よごとだけを伝える。
一緒に遊んで、勉強を見て、挨拶をする。
決して裁かずに、側にいる。
…
役立たずでもいい。無意味でもいい。
私は望まれてここにいるわけでもないし、私は望んでここに来たわけでもない。
誰でも良かった。誰かが引き受けるべき仕事があっただけ。
私は、ここの人たちを変えようと願ってはいけない。
ただここの人たちが幸せに生きていけるようにと、祈るだけはできる。
必要な施設であることも十分理解した。
でも、このような施設が不要となる社会になればいいと願っている。