私にできること

今日は絶対的休日。

朝からコーラスの練習に出かけて、コーラスのお友だちたちとランチして、

それからまた別の友だちとお喋りをした。

夕方、ソファーで野田先生の論文を読んでいたら昼寝してしまっていた。

夜はベイトソンゼミ。

その後ベイトソンの本を読んでいたらまたうたた寝していた。

なんて優雅な休日。

 

 

私の関わる子どもたちには、登校しぶりのある子どもたちがとても多い。

中学生に関しては100%そうだ…

モーニングコールとか、それでも起きなければ部屋まで起こしに行くという業務も、朝のルーティンワークとして務めている。

失礼しま〜す。おはよう!今7時10分ですよ。今日はどうしますか?

ーわからん。

じゃあまた声かけましょうか?何時に声かければいい?

ーんー、わからん。

うーん。じゃあ、8時に声かけようか?

ーそれでお願い。

わかりました!失礼しました〜。

随分慣れてきた。アホみたいににこにこ務めている。

 

送迎業務を担えるようになったので、そんな遅刻・早退の中学生たちを毎日のように学校まで送迎している。

車で片道10分。あんまり話をしてこないから、私もあんまり話さない。

でも、どんなに遅い時間に登校する時でも、登校できて素晴らしいって心から思い、

よし行こう!って言って意気揚々と発進する。

どんなに早くに早退する時でも、お疲れさま、頑張ったね!って言って車のドアを開ける。

はにかんだ顔が、まだ幼いなと思う。

 

どうしたらもっと早く行けるかなとか滞在時間伸ばせるかなとか、明日はもっと頑張ろうとか、絶対に言わないようにしている。

学校には毎日朝から行って全ての授業を受けるべきだって、彼らはちゃんとわかっている。

わかっていて、そうしていない。

そうする勇気がくじけているから。

だから、当たり前のことをお説教することは、さらに彼らの勇気をくじいたり彼らとの関係を悪くする作用しかないと思う。

せめて、これ以上悪くしてはいけないと思う。

 

「関係が先行する」とベイトソンが書いている。

パセージでも、まず良い関係を保つことを強調している。

私は、彼らの日常に馴染んできたところだ。

良い関係を作っていきたいと思っている。

それができるかどうかはわからないし、それを彼らが望んでいるかどうかもわからない。

でもまずは私から始めなければね。

 

遅刻欠席早退について、何も言わないことで、彼らを甘やかしているつもりはない。

次の声かけの時間を依頼してもらうように尋ねることで、わずかばかりでも、彼らの課題に取り組んでもらおうと、つまり彼らのすべきことの責任を取ってもらおうと意図している。

「何かを学んでもらうために、嫌な思いをさせなくていいのです。」と野田先生が仰っていた。

 

遅刻早退したら車で送迎してもらえるなんて甘やかしだと思われると思うけど、

彼らについては自分で歩いて登下校するという言葉がない限り、朝から最後まで授業を受けても送迎しているので、差異はないのである。

学校への送迎自体が甘やかしだと言われれば私は反論できない。

しかしそんな程度の甘やかしはうちの職場では全く問題にならないほどに、もっともっとすごい甘やかしがあると思うので、取り立てて話題にするようなことではない。

私は面接の時に学校送迎の話を聞いて、なんていう甘やかし育児だと呆れたんだけど、そんなレベルではなかった。

だいたい朝は、自分で起きなさい!と思います。

 

でも、そんなことはわかっている。

どうすれば朝起きられるかもわかっている。

あえてそれをしていないのだ。

学校に行かないという選択もあると思う。

でも彼らは、学校に行かずに充実した生活を送る、ということもできないでいる。

学校に行けるようにどうしようという話題で、職員たちと繋がっている。

学校に行かないでいる限り、注目関心を浴び続けることができる。

職員がゲームとか、スポーツとか、一緒に遊ぶ時もある。

でもそういう楽しみも、大抵は学校に行けたらというご褒美として支援計画に設定されている。

結局、学校に行くべきというコンテクストから逃れられない。

 

私が密かな抵抗として、学校に行くべきというお説教をしないのは、

違うコンテクストで子どもたちと繋がる試みなのかもしれないと思った。

彼らの素晴らしいところを、良いところを伝えていきたいと思っているけれど、それもまた今の私には難しいことだったりする。

さりげなく、彼らの抵抗に遭わずに、上手に届けられる機会をうかがっている。

 

彼らが勇気を持って生きていけるように。

それはとても難しいことなのだと思う。

まずは彼らのその難しさを、私がわかっていたい。

原因が何であっても、彼らは今、勇気がくじかれている。

どうやって生きていけばいいのかわからないでいる。

そのことをよくないと判断するのではなくて、どこまでも一緒に見届けてみたいと思う。

 

 

先日のAちゃんと公園からの帰り道、

「Aちゃんの言う男らしさとか女らしさとか、頑固とかってどういうことを意味しているのかな。人によって使う言葉の意味って少しずつ違うと思うんだけど、私はそういうひとりひとりの使う言葉の意味を、お話ししながら知っていくのが楽しいんだ。」

と私が言うと

「さすが、落語好きな人だけあって、言葉が好きなんだ〜!確かに言葉って面白いかも。」

とAちゃんが応えてくれた。

 

朝起きれない、学校に行けない、生活リズムが崩れている、

そんなひとつひとつの行動にその子の全てを紐付けたりしないで、

その子の物語を一緒に読んでみたい。

その過程で、その子と私との物語を作っていきたい。

そうしているうちに、私にお手伝いできることが、何か見つかるかもしれない。

私にお手伝いできるようなことが見つからなければ見つからないで、その子が自立して生きていくことを喜びたい。

 

生きていくことは辛いことばかりと思えるかもしれない。

でも、物語の捉え方ひとつで、どんな状況も意味づけは変わる。

「幸福な人と一緒にいて、なお不幸でいることは難しいのです。」と野田先生は仰った。

私は幸福な人だ。

だからきっと、私と一緒にいたら、不幸でいることは難しい。

不幸でいたい人は、私のことを嫌うだろう。

それはそれで、いいんだと思った。

幸せでいたい人は、私と一緒にいましょう。

「私は、ここにいます。」