今日は野田俊作ライブラリのオンライン勉強会だった。
毎回、近況報告としてたくさんの事例を聞いたり話したりしている。
パセージやアドラー心理学の実践について学ばせてもらっている。
まっすぐに実践しようとしている仲間たちがとても美しいと思う。
ひとりで過ごしていると、自己執着に囚われてしまう。
誰かと話したいとか、誰かと会いたいとか思うそのことも、ボディの愛で、
つまりは自己執着なのだと野田先生はおっしゃる。
それは相手から何かを得ようとしているから。ハートの愛は、与えるものだから。
だとすると私はまだその境地には達していないようだ。
あと1週間で仕事が始まる。
一昨日は新規採用者説明会と、職場への挨拶に行ってきた。
心理職として応募し、採用されたのだけれど、1年近くは福祉職のスタッフとして働くことになるらしい。
他にもいくつか、面接の時には知らされていなかったことを伝えられた。
まあ、そういう職場なのだろう、と思った。
私の理想と常識からかけ離れたところだろう。あらゆる点で。
強がっているわけではなくて、それでいいと思っている。
一体どういうところなのか、なんでも見てやろうと思っている。大変楽しみだ。
大変なことが起こる度、次はこういう展開か…と呟いてしまう。
まるでメルヘンセラピーを実写で演っているようだと思う。
予想外の展開が続く。この物語はどこへ私を導いていくんだろう。
でも実際、私は傷つけられることはないし、危機的状況に突き落とされることはないのだ。
いつだって私には仲間たちがいて、私を支えてくれているから。
私は、私を安全に動かす能力があるから。
私が望むような私の役割が回ってこないという、そういう状況にあるだけだ。
それを不幸と思うか幸せと思うかは、私が自由に決められる。
…ひどく解離性が高いなと思う。これは多分私のストレンクスだ。
私は私の物語を歩きながら、誰よりも面白がって読んでいる。
価値観の違う人々の中で、私がどれほどお役に立てるかは本当にわからない。
でも、「役に立ちたい」という私の握りしめている自己執着を手放せば、
私は職場のスタッフたちのためにも、利用者さんたちのためにも、役に立つ役割を担えるのだろうと思う。
なぜなら、自己執着の反対が共同体感覚だからだ。
少なくとも、1人のスタッフが足りないので代わりの誰かを必要としていたのである。
その誰かが、今回はたまたま私だったのだ。
私じゃなくても誰でもよかったのだ。
こういう風に認めてしまうことは、私としてはとても不本意だ。
その他大勢、いくらでも代わりのきく存在になることが、耐えられない人間だ。私は。
私を特別な人物として認めて欲しくてたまらない。そういう大変強い自己執着がある。
でも、その現実を受け入れようと思った。
この事実、たまたま私がこの仕事を担うことになったんだと認めてしまえば、
私はその役割引き受けただけで、ちゃんと役に立っているんだと思える。
私は良い心理職のスタッフになれない以上に、良い福祉職のスタッフにはなれないに違いない。それでいい。
良いスタッフになろうという自己執着こそが、私の悪癖なのだ。
私の優越性の目標は、完璧主義で、熱意にあふれ、向上心の塊で、妥協を許さない。
この職場でそんな目標を追求していたら、私はきっと身体を壊し、精神を病むだろう。
私は自分の非力さを認め、自分が取るに足りない人物であることを認め、
アドラー心理学なんてこれっぽっちも望まれていない職であることを認めよう。
ただ猫の手も借りたい現場に、たまたまこの手を貸しに行くだけだ。
その手の貸し方は、私はアドラー心理学以外の方法を知らないから、ゆるしてもらおう。
私は自分を認めてもらうために仕事をするのではない。
誰かの役に立てるように、私のできることを捧げる。