今日は午前中はオンライン勉強会だった。
『無意識の発見』のアドラーの章の抄読会を始めた。
勉強は、ひとりではなく仲間とするものであること、
勉強は、メタの位置から学び方を学んでいくと、より楽しくより学べるということ
を学んだ。
私の人生には、アドラーとベイトソンだけでもう十分だなあと思う。
娯楽部門としては、ゲーテと落語とオペラもほしいなと思うけれど、
でも、多くは望まない。
もともと、好きなCDをエンドレスリピートするタイプだ。好きな本を繰り返し読むタイプだ。
私は好きな音楽家ばかり、好きな作家ばかりを偏愛する。
友だちも少ない方だったと思う。
そのときそのとき、とても大事な友だちが数人だけいて、
環境が変わると別れがきて、また新たに数人の大事な友だちができて、
私の周りにいてくれた。
私は人々や世の中に、あまり多くを望まない。
私の自己執着は、ほぼ私自身についての執着だ。
自分の理想像が高すぎた。
私はようやくここ数年で、私以外の人へ関心が向くようになった。
ここ数ヶ月で、私自身の判断を絶対的なものとみなさないようになった。
パセージやカウンセリングの現場では、瞬間的に判断しなければならない状況の連続である。
その場数を踏むことによって、私は自分の判断が誤りやすいものであることに気づかされた。
その瞬間、自分にできる最善の判断を私はしている。
しているけれど、いつだってその判断よりもより良い判断が存在するのだ。
それをわかってしまった。
だから、私は寛容になりたいと思う。
私の判断は、誤っている可能性がある。
私が最終的に決断する状況を、なるべくなら避けたいと思う。
すべてを、私の最善の努力を尽くした結果、運命に委ねたいと思う。
私と相手との意向が見えた後、運が私たちを運んでいく方へ、私は流れていきたい。
誰かが何かをしたいと私に望むとき、
私はできる限り、その誰かを援助したいと思う。
私は誰かの人生を左右するような決断をする立場ではないと思う。
その誰かは、自分の子どもたちでもあるし、友だちでもあるし、メンバーさんやクライアントさんたちでもある。
私は私の力を借りようとしてくださることに感謝をして、
私の身体を通って、お手伝いをする働きかけがなされることを喜ぼうと思う。
私とは、あってないようなものだ。
そう考えて行動しているとき、私は自己執着を手放せているのではないだろうか。