視点

ロシア文学に目覚めたと先日書いたが、相変わらずチェーホフにはまっている。

この2週間で読んだのは、

「かもめ」「桜の園」「プロポーズ」「熊」(浦雅春訳)

「犬を連れた奥さん」「イオーヌィチ」「可愛い女」「嫁入り支度」「かき」「小波瀾」「富籤」「少年たち」「カシタンカ」「ねむい」「大ヴォローヂャと小ヴォローヂャ」「アリアドナ」(神西清訳)

「脱走者」「チフス」「アニュータ」「敵」「黒衣の僧」「六号病棟」「退屈な話」(松下裕訳)

浦雅春訳は全てが戯曲、あとは短編だ。

どの本にもかなり気合の入った解説がついていて、チェーホフという人物についても、少しずつ詳しくなってきた。

 

ドストエフスキーの短編も、チェーホフのように突拍子もない設定の面白いものがある。

このふたりの舞台設定や、登場人物の属性や、生じる事件や、物語のプロットは、大変に似通ったものがあると私は思う。

そう思うのだけれど、大きく違うのは、ドストエフスキーの方が大仰で、重厚長大、感情を大きく揺さぶられるということだろうか。

それは時代も関係しているかもしれない。

チェーホフは、長大なロシア文学の文化から外れたところに生まれた後の世代だから。

 

けれども、そういう外的に測れる要素より、

ドストエフスキーは自身が様々な神経症的な登場人物と一体になっていて、完全に憑依してなり切って人物を描いていることが特徴なのではないかと思う。

ギャンブル依存症だったというドストエフスキーが、

「賭博者」でギャンブラーが賭け事に目の色を変えて、あと一度で終わり、あと一度で終わり、と思いながら賭け続け負け続けていく時の臨場感と焦燥感は、私の心臓まで苦しくさせる。

このままではあかん、もう破滅や!とこちらがヒリヒリする、その予想以上に堕ちていく。そこに恐ろしいほどの爽快感まで感じる。

悲恋の迫力は、私も一緒に自殺したくなるぐらいだ。

読み終わった後はぐったりである。スポーツのようだ。

 

チェーホフは、それとは対照的に、どこまでも突き放した描き方をしているのが特徴だと思う。

登場人物にあまり感情移入ができない。

悲劇は淡々と進んでいく。

噛み合わない台詞の応酬で、登場人物どうしも何が起こっているのか把握できていない。

けれども、こうでなければならない必然が緻密に積み重ねられて、配置されて、物語が組み立てられている。

読み終わった後は、その物語の構造に気づけた時は、私は雷に打たれたように衝撃を感じる。

 

チェーホフの「かもめ」という戯曲は、劇中劇がある。

「かもめ」の解説で、メタ演劇性という言葉が使われていて、納得した。

チェーホフはいつもメタの位置にいる。

医者であったチェーホフは、いわゆる二重見当識を保ちながら、舞台を差配しているのだろう。

そして登場人物たちには、その構造が一切見えていない。

そこがとても可笑しくて、奇妙で、悲しいのだ。

チェーホフの視点はひとつところに定まっていて、そこから舞台を見ている。

私も同じように、客席からお芝居の舞台を見ている。

 

ドストエフスキーは、言うなれば落語のようなものか。

ある登場人物になりきっては、また別の役になりきり、急に舞台背景について説明をし、推測をし、進行係をつとめ、また別の役になりきる。

だから私も、その渦中に溺れてしまう。

視点がころころと切り替わる。

ああ、映画のようでもある。

 

 

私は映画も芝居も好きだけれど、どちらかというと芝居の方が好きだ。

その理由は芝居がライブだからだと思っていたけれど、

視点が定まったところから観れるから、というのも大きいのかもしれないと、今気づいた。

私自身が、視点が目まぐるしく変わるタイプなのだ。

 

 

昨日のベイトソンゼミで、右と左の話があった。

左右というのは実は定義不可能なのだとベイトソンは書いている。

「アナログの文字盤時計の7から11までがある方が左」

という定義はわかりやすいのでは、というお話しがあった。

けれど、時計の視点に自分を置いてみれば、7から11は、時計である私の右側にあることになってしまう。

だから正確に表現すると、「アナログの文字盤時計に対面した時、7から11までがある方が、対面した人物にとっての左側」となるように思う。

私は幼い時から、右と左がわからなかった。

ベイトソンの説明を読んでも、オンライン勉強会でみんなと議論しても、それでもやっぱり未だに、右と左がわからない。

それは、私の視点がいつも、鏡の中の私と鏡に対面する私とを行き来するからなのだろう。

だからその「右」は、どちらの「私」にとっての「右」なのか、見えているものを「右」というのか、本人にとっての「右」なのか、相手にとっての「右」なのか、いつも混乱するのである。

 

地と図の反転について有名な、白黒のシルエットの絵がある。

向き合ったふたりの人物の顔に見えるか、杯に見えるかという絵なのだけれど、

たいてい、「何が見えますか?」と尋ねられる。

どっちの絵のことですか?と、私は子どもの頃困惑していた。

はじめは、二つの絵がちらちらと切り替わってしまって、細部を見ることができない。

しばらく見ていると、だんだんとコツを掴んできて、

人の絵を見るときはここに焦点を当てる見方、杯の絵を見るときはここに焦点を当てる見方、という風に、自分でどちらの絵を見るかが自在に調節できるようになってくる。

しかし周りのみんなはどうやら、どちらかの絵しか見えていないようであることに驚いていた。

先生としては、こういうところに焦点を当てて、見方を変えれば、もう一つの別の絵が浮かび上がってくるんですよ、ということを伝えたかったのだろうけれど、

私は、安定した見方をするために、その工夫が役立った。

 

同じ現象として、黒板に書かれた立方体の見取り図も、私の視点が定まらないために前後が動いてしまって、

どのように見ればいいのかを理解することが非常に困難だった。

「お前は賢いはずやのに、なんでこれがわからんのや!」と、

4年生の時の担任の先生が苛立って叫んでおられたのを覚えている。

 

 

私はどうやら視点が安定しないらしい。

現場にいる人は、右といえば自分にとっての右なのだろう。

対面している相手の右手は、自分が同じ場所に立った時の右手の位置にあるはずだから、

私にとっての左側に相手の右手が「見えている」ことに、おそらく疑問を抱かないのだろう。

そして、鏡に対面した時は、私の右手が右側に「見えている」ことに、おそらく疑問を抱かないのだろう。

鏡の中にいる相手が何を見ているか、そんなことは気にしないのだろう。

 

 

私はドストエフスキー的に視点をあちこち動かし続けて生きながら、しかし、チェーホフ的な視点の定まった舞台に憧れるのかもしれない。

チェーホフの物語について語りたかったのだけど、今日はこのあたりで。