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今日はベイトソンのオンライン勉強会だった。

日中は資格試験の勉強をしたり、買い物に行ったり家事をしたり。

 

少しずつ、業界の言葉が私のものになってきているように思う。

変化についての変化を考えると、学習が起こっていることに気づける。

それでようやく、私は勉強し続けるモチベーションが維持できるようになる。

論理階型を上がるというものの見方は、閉塞状況から抜け出せる。

ベイトソンを学んでいてよかったと思う。

 

映画を観たのが昨日だったことを忘れるぐらい、濃密な時間を過ごしている。

運転すること、物語を創ること、演技をすること、

そういう特殊技術を身につけて、人を感動させるほどに打ち込む人たちの映画でもあった。

私は訓練が好きでないから、より一層、その稽古の場面を美しいと思う。

今私も、ひとつひとつ理解していくという稽古をしているんだろう。

 

歌うことも楽器を奏でることも、文章を書くことも、上手になりたいと思う。

野田先生は何らかのお稽古をすることを勧められることがあった。

それは多分、何かの技術を習得するというお稽古という学習過程は、全ての学びに関係しているからだと思う。

学習についての学習が起こるからだろう。

私はトランペットのお稽古に打ち込み始めてから、ピアノがそれまでよりは上手くなったもの。

そんな風にして、カウンセリングが上達するシステムを作ってしまえたらいいなと思う。

 

 

でも今、私はたいへん劣等感を感じている。

自分には何も取り柄がないように感じている。

このカラクリはもうわかっていて、私の理想が高すぎるというだけの話なのだ。

今日は過敏らしい。

記憶力が良くて理解力の早い人になりたい。本当に試験勉強が苦手だ。

いや、努力し続ける能力のある人になりたい。

さらには小林秀雄のような文章力、松岡正剛のような賢さと編集能力、歌手や役者のような表現能力を、羨んでいる。

相変わらず無謀な高さの理想だ。

 

 

自分の優越性の目標を知っていると、それを目指す方に強化しないよう、自分で調節ができるようになる。

まだ言語化できていないけれど、私は何らかの特殊能力の高い人を理想としているようだ。

なぜならば、そういう人が人の役に立つと信じているからなのだろう。

おそらく「役に立つ」というのが私の大きな価値観、私的意味づけだ。

そのために、私は主に積極的な手段を取り続けてきた。

バカ→賢いという知的な目標追及の線も、不器用→プロという技術的な目標追及の線も、

どちらも「役に立つ」に向かっていると思う。

 

なるほど、明確な取り柄がなければ「役に立つ」に向かわないと思っているんだな。

私が優越性の目標を緩めるには、緩和の要素が必要だ。

無駄なもの、無意味なもの、遊び、息抜き、無用の用。

映画に行ったのは、私にとってよかったことだったんだろう。

休むことも必要だ。

メタに上がれば、私がバランスを保って生きていけるように、調節ができる。