金曜の夜から今晩まで、母と過ごした。
仲間と別れて、ひとりで特急列車に乗って、寂れたわが町に帰ってきた。
誰もいない商店街のアーケードを抜ける。
輝く月が私を見ていた。
行きの特急列車の中で、私はアンデルセンの『絵のない絵本』を読んでいた。
貧しい画家が、屋根裏部屋を訪れるたったひとりの友だち、月の語る小さな物語を聴く三十三夜の物語。
月は孤独を癒してくれる。
「見てごらん。お月さまが美穂の後をついてきてるよ。」
「どうしてお月さまはわたしについてくるの?」
「どうしてだろうね」と父は笑った。
お月さまはひとりしかいないのに、夜道を歩いている子どもが世界中にはいっぱいいるかもしれないのに、
どうしてお月さまはわたしについてきてくれるんだろう。
私は不思議だった。
でも今は、確信を持って言える。
お月さまは、どの子どもにもちゃんとついてきてくれる。どの子の夜道も優しく照らしてくれるんだよって。
月の光は、太陽の光のように植物を育てるわけではない。
雨の日や曇りの日は隠れてしまうし、
毎晩毎晩姿を見せてくれるわけでもない。
それでも、孤独な夜にあなたに助けられた人は、どれだけいるだろう。
どれだけの詩人が画家が、あなたを描いただろう。
金曜の夜は、母にメタファーセラピーをしてもらった。
メタファーというものをきっかけにして美しい物語を作る力を得た。
良い文学、良いお芝居、良い音楽、良い絵画。
でも多分、子どもはそれらに触れる前から、自然と戯れ、メタファーの世界、空想の世界、物語の世界に生きているのだと思う。
その空想の世界を、大人になって社会適応していく過程で削っていくのが近代の作った社会なのだろう。
それは味気ない人工の世界だ。
世界の再魔術化。自然と人とが一体となって世界を作っていることを思い出せる社会になればいいなと思う。
美しいものを作るのは職人としての芸術家だけの特権ではない。
ひとりひとりの暮らしの小さな小さなエピソードも、本当は誰もが美しい物語に変えてしまえるのだ。
私たちは同じ時空を過ごし同じ出来事を共有して生きながら、全く違うものを見て、全く違う物語を生きている。
もしかすると、同じ物語を共に作れたとき、私たちは平等の位置にいるのかもしれない。
それを私たちは美しいと感じるのかもしれない。
講座では、1日目も2日目も、どちらもSちゃんの事例を取り扱っていただいた。
Sちゃんのことをみなさんと一緒にゆっくりと考えることができた。
とてもありがたかった。
彼女は過酷な環境に生きている。必死に戦って生きている。
でもそんなに必死にならなくても、あなたは大丈夫なんだよって、
私はいつもあなたのことを見ているよって、側にいるよって、伝えたいと思った。
いつも一緒にはいられないし、あなたの問題を解決する役には立たないかもしれない。
あなたを暖めることは、私にはできないかもしれない。
それでも、あなたが孤独でたまらないとき、ひとりじゃないって思えるように、月のようにあなたを照らしていたいと思う。