新しい世界へ

今日はあまり外遊びをする機会がなかった。

あまり子どもたちと触れ合うことがなく、いつもより体力は余っているがちょっと寂しい。

 

 

盲学校に通っている思春期の子と仲良くなった。

彼女はとても賢くておしゃべりが好きなので、話していてとても楽しい。

彼女の生きる世界は、私にとってはとても新鮮だ。

色々な制限がある中でも、たくさんのことができるようになって、今もたくさんの努力をしているという話を聴いた。

私がどれほど視覚情報に頼って生きているかを知った。

 

彼女の記憶力は素晴らしい。

私の声を、一度で覚えてしまった。

出会った3日目だったかに再会したとき、こんにちはと挨拶すると、あ、Mさんだ〜!って言ってくれた。

彼女の忙しいスケジュールの中で、機会を見つけて、私におしゃべりしましょうって言ってくれることが、とても嬉しい。

だって、彼女が世界と関わるということは、話し、聴き、肌で感じる、ということで、

おしゃべりが彼女にとってどれほど大きな楽しみであり、大きな意味を持つか、私には計り知れないと思うから。

彼女が私を通して新しい世界に触れようと思ってくれているのと同様に、私も彼女を通して、彼女と彼女の世界を知りたいと思う。

そして彼女と一緒に、私たちの生きるこの世界を、素敵だね、と眺めたいと思う。

 

私の知らない彼女の世界のことは、例えば盲学校のこととか、白杖のこととか、手引きのこととか。

お互いに知っている世界のことは、例えば食べ物のこととか、物の手触りとか、誰かが何かを言ったということとか。

彼女の知らない世界のことは、例えば桜が散ったこととか、車が混んでいるということとか、お母さんの一瞬の表情とか。

 

 

白杖には折りたたみ式のものと、直杖という折りたたみ式でないものとがあるそうだ。

折りたたみ式の方が扱いやすいし、カバンにしまって両手を空けることができるという点では便利だが、

作りが弱いので、自立歩行するためには直杖でなければ危ないということや、

白杖を使いこなすためには相当な訓練が必要なのだということなどを教えてもらった。

何であっても、物を自分の身体の延長のように使うためには、訓練がいるのだなあとしみじみ思った。

手引きにもコツが要るという。

今朝は建物の玄関から車までのごく短い距離を、私が彼女の手引きをした。

彼女の慣れた道だから問題はなかったが、手引きのポイントがまだわかっていないので、見知らぬ道を手引きするには、もっと慣れる必要があるだろう。

 

 

私はこれまで、障害のある人と接することがなかったが、

彼女と話していると、障害の有無というのは、本当に単なる器官劣等性の問題なんだなと思う。

自分でできることを自分でしたいと思って、自分の行動範囲を増やそうと努めて生きている彼女は、

もしかすると、誰かが側にいることによって安心を得ようとしていた少し前の私よりも、自立しているかもしれないと思う。

彼女には確かに視覚という器官の劣等性があるけれど、劣等コンプレックスを使うことなく、

自分にできることをして、新しい世界を知ろうとしていて、勇気があり、美しいと思う。

そして、彼女はちゃんと自立して生きていけるということを信じている彼女のお母さんを、本当に素敵だと思う。

 

 

ここでは、新しい世界に毎日触れられる。

生きているということは、当たり前じゃないんだなあとわかる。

私の子どもたちが健康でありますようにと願い、病気や身体の不自由を恐れていたけれど、もちろん彼らの健康を願うけれど、

五体満足であることと、幸不幸とは、全く別の問題なのだとわかる。

 

私は、人を憐みたくないし、おそらく憐まないでいられるように思う。

大変な状況の中でも、美しいものはたくさんあって、たとえ見えなくてもその美しさを感じることはできる。

その美しいものを見据えていられたら、世界は、物語は、変わってしまうと思う。

大変な状況が不幸な物語を作る、というわけではない。

多くの物語が交錯するこの場所で、私にできることは何なのだろう。

少しでも、小さくても、美しいものを一緒に見つけていけたらいいなと思う。

まずはそこからなのかな。