お付きの者

今日はひどい湿度の中、自転車で子どもたちを連れて近くの山の中の公園まで行ってきた。

2時間半ほど公園で過ごした。

グラウンドでサッカーする少年たちを見守りながら、

私は女の子と2人でたわいないおしゃべりをした。

みんなで自転車では登れない坂道を歩いて行くと、山の奥には広い池があって、深い緑の木々が映り込んでいた。

この山の奥には神社がある。神さまに守られた森だ。

秋になると熊が出るので気をつけなければならないけれど、こんな美しい場所がこんな近くにあったなんて知らなかった。

また友だちや私の子どもたちを誘って行ってみよう。

美しいものを見ると、私の心もきっと美しくなる。

その美しい心で、出会う人々に向き合っていたい。

 

 

今日も上司と2人でゆっくり話す機会があった。

いつもゆったりと構えておられる上司が、珍しく落ち着かない様子だった。

1週間前、事件だらけのこの施設の中でも、なかなかな事件があって、

明日はその事件絡みで、利用者さん本人と様々な関係機関も含めた重要な話し合いが持たれるのだけれど、

どういう展開になるか全くわからなくて心配…と話してくださった。

利用者さんと、あらゆる関係機関とが、目標が一致しない状況である。

その中で、利用者さんの生活を支援する福祉職の我が施設として、どのような立ち位置で、どのような目標に向かって動けば良いのかに迷っておられることがわかった。

 

医療や臨床心理の立場からであれば、治療を目的にするので、必要な条件を示し、これが守れないのであればうちでは治療ができません、ときっぱり言うことができるけれど、

福祉職というのは、医療や行政や家族と利用者さんを繋ぐ潤滑油であり、生活や生命を守るセーフティネットであると思うから、ある面で甘くならなければならないところもあるように思うこと。

利用者さんとの関係を良好に保っておくことが、最も優先すべきことのように思うこと。

そのような私の意見をお伝えすると、その通りだと思うと言ってもらえた。

 

利用者さんは認知の歪みの大きな病気だ。

病識のなさというのが問題をややこしくする。

治る気がない人を治療することはできない。

でも、その認知の歪みの大きさ、つまり思い込みの強さを逆手に取って、

この利用者さんの「物語」に我々が乗っかってしまったら、協力できる部分が見つかるかもしれない。

そんなクレイジーな「物語」について上司に話してみた。

「治療者は、クライアントさんよりもう一歩クレイジーでなきゃ治療はできないって私の先生から言われたんです。だから私はとてもクレイジーです。」

上司はとても面白がってくださった。

 

彼女はきっとお姫さま。

我々はお付きの召使い。

お医者さまたちは気難しい医師と優しいお医者さま。

市の職員は悪者で、

通所施設の職員さんは王子さま。

市の職員の言うことはもっともすぎるけれど、お姫さまは決して言うことを聞かない。あの人は嫌なことばかり言うと、1年ほど前からご立腹である。

お医者さまの言うことももっともだけれど、お姫さまは治療する気などはなからない。

我々はお姫さまをなだめたりすかしたり、ご褒美でつったり、でも結局は言いなりになることが多い。市と病院とお姫さまとの板挟みになる。

通所施設の職員さんは、個人的にお姫さまと連絡を取っていて、我々の知らないうちに勝手にお見舞いに行っていたり、お姫さまの言うように動いていて、これ以上話をややこしくしないでくれ!と我々は頭を抱えている。

 

そんな状況で、明日の話し合いの席ではどう振る舞おうかと上司と作戦を練った。

市の職員さんには、徹底的に悪者役になっていただいて、必要なことを言ってもらい、

お医者さま方には、お姫さまのお身体のためにと説明をしていただき、

我々はお付きの者として、「まあまあお姫さま、お気持ちはわかりますが、どうかどうかここは我々のためにもお気をおさめてくださいませ。」と、なだめ役に徹する。

それでもごねてごね倒したら、奥の手で通所施設の職員の王子さまに入っていただいて、

「どうか私に免じて、お姫さまのためにもどうかお身体をお大事になさってくださいませ。さあ、あちらの病院へまいりましょう。」と手伝っていただく。

おそらく王子さまの馬車には乗ってくださるので、お姫さまが気を悪くして我々の車には乗らないと言い出したら、

既に車を出しますよと申し出てくださっている王子さまのお言葉に甘えてしまおう、と上司は笑って言われた。

 

要は、転院するという話なのだけどね。

ご本人は退院する気満々なので、困り果てているというわけだ。

 

 

どうしてあそこまで激しく思い込めるんでしょうね、と上司が言われた。

過保護過干渉の親の弊害は、子どもが自分には全く能力がなくて、自分は役に立たないと自信を失うことがあると思います。

プライドの低い子どもの場合は、じゃあ全部やってもらおう、楽に生きよう〜って思えるかもしれないけれど、

プライドの高い子どもの場合は、その状況はとても耐え難いと思います。

プライドの高い利用者さんは、自分は不治の病に冒されたお姫さまであると思い込むことで、なんとか自尊心を保とうとされたんじゃないでしょうか。

周りが何でもやってしまうのは、自分がお姫さまだからだ、って思い込むことで、生き延びてこられたのでしょう。

それから、通所施設の王子さまは、彼女が少しでも役に立とうと思って作業をしているところを、彼女の懸命さを、我々の知らない彼女の良い姿を、見ておられるのでしょうね。

そんな風に上司に話しているうちに、

私自身が、あの困ったちゃんの利用者さんの不適切な行動の数々を、初めて、彼女の必死の適応努力なんだと思えた。

彼女の生きてきた過酷な環境を思って、そんな中での誇り高い彼女を思って、上司の目も少し潤んでいた。

 

あの険しい生き方を、彼女は選ぶことにしたのだ。

そんなことをしなくても、もっと心穏やかに人々の間に所属して生きていくことができるって、思えなかったのだ。

それはとても悲しいことだな、と思った。

だからといって、私が彼女のためにできることは何もない。

でも、あたたかい上司は、彼女の一番のお気に入りのお付きの者である。

そのお付きの者がお姫さまの物語を共有し、その物語の中で共に歩むことを決めてくださった。

 

 

きっとお姫さまの病は治ることはないだろう。

彼女は恐ろしく根性が据わっているから。

人生をかけてこの病を使ってこられたお姫さまは、他の生き方を知らないから。

だけど、私たちが少しでも彼女と良い関係を作っていけたら、今よりは少しはマシな程度で、病弱なお姫さまとして生きていけるかもしれない。

いや、そんなことも、あり得ないはるか彼方の理想かな。

少なくとも、お姫さまと暮らすことを億劫に思い、お姫さまを疎ましく思う召使いたちに囲まれているよりは、

お姫さまの物語を面白がりながらお付きの者として喜んでその役割に徹する召使いが1人でもいる方が、彼女の理想の暮らしに近いだろう。

 

 

「物語は凄いですね。」と、上司が私の目を真っ直ぐに見て言ってくださった。

私は、この上司に出会えてよかったと思えた。

私たちの間にも、良い物語が紡がれていく。

 

アドラーのアの字も使わなくても、私が野田先生と優子先生から学んできたことは、誰かのお役に立てられるかもしれない。

この施設の基本構造は、いつまでたっても囚人と看守のままだろう。

でも、そこに働く人々が、利用者さんたちのそれぞれの物語を読み、味わい、面白がりながら、

少しばかりのクレイジーさと、楽観的な見方と、メタに上がる能力を持っていれば、

利用者さんたちと治療的な良い関係を築いていけるかもしれない。

利用者さんたちを変えることは難しい。

だけど職員が変わることは、もしかしたらできるかもしれない。

そうすればもう少しだけ、この世の中は良くなるだろう。

私はそれを目指そうとはしたくない。私はどこまでも欲深いから。

そういう、良い影響を与えたいというのが私の執着だから。

でも、この上司となら、何かできるかもしれないと思ってしまった。