On the Sunny Side of the Street

それなりに忙しくはしている。

この1週間の間に、カウンセリングとエピソード分析の勉強会と自助グループを合わせて5回あった。

久しぶりにアドレリアンセラピストとしての武者修行をさせてもらった。

あまり疲れなくなったのは、不要な緊張が抜けてきたからだろう。

 

ブログを書かないときは、

ここに書くことが劣等感の補償になっていたり、

かまって欲しいというメッセージになっていたり、

そういう目的で書こうとしているなと感じるときだ。

私は、人に自分の文章を読んでもらいたくてたまらないのだ。

だから、様々な思惑がそこに貼りつく。

もちろんいつだって私に優越目標の追求の意図はあるけれど、

せめて明らかに劣等感を感じる時だけは、ブログを書かないようにしようと思うようになった。

ここに書くよりは、誰にも見せない文章で補償をする方がいくらかマシだと思って。

しかし誰にも見せない文章として、1ヶ月ほど前からジャーナルを書き始めたが、

このジャーナルには「自己成長を目指し肯定的なことを書く」という縛りがあるので、

いずれにしても私は劣等コンプレックスを使うことはできない。

無理やりにでも良い側面を探さなければならない。

途中きつい時期があったが、今はかなり物事の良い側面を見つけるのが上達したと思う。

 

そういうわけで、しばらくブログを書いていなかったが、特に忙しかったからというわけではなく、落ち込んでいたからである。

書く気力がないというわけではなく、書いて挽回しようという気だったから、

そういう私を成長させようと思って、ここには書いていなかった。

私は自分で自分の落ち込みをなんとかしたいと思うようになった。

今までは、友だちに頼っていた。

話を聴いてもらって、私の良いところを見つけてもらって、慰めてもらったり励ましてもらったり。

友だちはきっと、迷惑だなんて思っていなかったと思うけど。

というよりも、私の役に立ててよかったって思ってくれていたと思うけど。

でも今は、できるだけ落ち込みから抜けてから、友だちと話をしたいなと思う。

どうやら私は、ちゃんと自分で自分の機嫌を良くすることができるみたいだから。

限りある大切な友だちとの時間は、より良い時間にしたいから。

自分でどうにもできそうになかったら、聴いてもらうけどね。

 

 

そう、私には話を聴いてくれる友だちがたくさんいる。

その友だちは、日々増えていっている。

出かける先々や自助グループ、コーラスサークルでも、新たな友だちができる。

幾つもの良い友だちの輪の中に私が入っているから、その輪の広がりと共に私には仲間が増えていく。

本当にありがたく、幸せなことだと思う。

理想の友だちっていうのは、自分と違う相手をそのまま認めながら、自分の意見を素直に言えるような関係で、

横の関係、平等の位置に居る状態だと思っている。

 

 

そういう友だちや家族を持っていない人たちと、職場ではお付き合いをする。

私たち職員が友だちの役割も担うのだ。

中高生の数人と、利用者さんも数人を除いたら、私はずいぶんたくさんの人たちにとっての友だちになれたように思う。

 

でも、もし友だちだったら見過ごせないな、どう思っているのかよく話を聴いて、私の意見を言うだろうな、というようなときでも、

にこにこと見守ってあげるだけにしてください、という対応を求められることが多い。

ツッコミを入れることも我慢しなければならない。

本音で話ができないことがもどかしい。

そんな中で、私は一体どうやって友だちとしてつき合えるか、試行錯誤中である。

 

 

夜勤中、退所した方から電話がかかってきた。

夕方から2回ほど電話がかかってきたと日報に上がっていた。話の内容は同じことだ。

ちゃんとした精神疾患の方なので、かなり気をつけなければならない。

辛かった話を泣きながら繰り返しされるので、気が済むまで聴いてあげようと思って聴き続けた。

 「ごめんなさいね、こんな話…」

「いいえ。聴くことしかできませんけれど、それで少しでも楽になられたらいいなと思います。」

 「ありがとうございます…私…」

また泣かれたので、言葉がよくわからない。

でもいいんだ。とことんつき合おう。これは仕事だ。

 

彼女は慰めてもらいたいわけでもないし、励ましてもらいたいわけでもないようだ。

あなたは悪くないよ、相手がひどいよね、と言ってもらいたいのだろう。

でもそこに私が乗っかっても、彼女が満足する日はやってこないだろう。

「あなたはよくやってますよ、ゆっくりして、楽しいことをして。

酷い人のことは放っておきましょう。あなたのせいじゃないんだから。

あなたはあなたにとって良いことだけしてみましょう。もう泣かないでいいでしょ。

またいつでも電話してきたらいいですからね。」

そういうごくごく一般的な職員の対応では満足できなかったから、何回も電話をかけてくるのだから。

 

私が彼女を変えられるとも思えない。私から何かを学ぶ気があるとも思えない。

私にできるのは、何だろう?

 

 

 「ねえ、酷いと思いません?どうしてこんなことができるんでしょう?」

「うーん、そうですね…」

 「ごめんなさいね、答えにくい質問ですよね。」

「いいえ、ちょっと考えていました。すぐ答えられなくてすみません。

 わかってもらえない人とわかり合えないのは仕方がないって思うんですが、 

 でも、辛い思いをわかってほしくてお話ししたのに、そういう風に言われたらお辛いだろうなって。」

 「優しいと思います。」

「え?」

 「あなたは、優しい人ですね。」

「そうですか?それは、ありがとうございます。」

 「私の話をよく聴いて、よく考えて、お話ししてくれているんだなって感じます。」

不明瞭だった滑舌が、急に明瞭になって、

ご自身が楽しいと思えることについて話を始められた。

あ、この人は健康な側面で私と話をすることにしてくれたんだなって思えた。

とても嬉しかった。

「いいですね。そういうことを楽しめるの、素敵だなと思います。」

 「ありがとうございます。そうですよね、そう考えたら私、幸せなのかもしれないですね。」

「うん、幸せだな、楽しいなっていう時間がたくさんになればいいですね。そうすれば辛い時間が、短くなりますからね。」

 「あ、本当ですね…!」

また空気が変わった。光が見えたのだろうか。

 「遅い時間まですみません。もう寝ます。おやすみなさい。」

「そうですか。お話ししたくなったら、またいつでも電話かけてくださいね。

 ここには、いつでも誰かがいますから。おやすみなさい。」

45分話していた割にはびっくりするほどあっけなく、電話は切れた。

 

とんでもなくて、つき合いにくい方だと思う。

でも、この方が辛い思いをしているのは確かで、

誰かと繋がって、自分には仲間がいて居場所があるって思いたいということも、おそらく確かだ。

それは誰もが望むことだから。

私がたまたま、この方の寂しさに向き合う巡り合わせになった。

ただ聴いてもらうだけ、なんて、誰も望んではいない。聴いてもらってスッキリしたなんていうのも嘘だろう。

あなたの味方だよって、誰かに言ってもらいたいのだ。

きっと本当は、私たちは、望んでいることは些細なことなんだと思う。

大掛かりな仕掛けを作って、何層にも神経症的策動を重ねて、複雑怪奇でどうしようもないものをこしらえるけれど、

本当に望んでいるのは、小さな子どもが望むことと同じなんだと思う。

 

寂しい夜に、私が友だちになれたのならよかった。

いつだって陽のあたる場所を探して歩こう。

めちゃくちゃ緊張したけれど、彼女の電話のおかげで、大切なことに気づかせてもらった。

私も彼女も、同じだ。

 

 

 

音楽が私を支えてくれる。

明るく真っ直ぐな音色が、今も身の内で響く。

この世界は素晴らしいという「かのように」を、肯定してくれる。

どれだけ絶望的な人々のお話を聴いても、私はきっと陽のあたる場所を見つけられるだろう。