子どもたちは、夜ご飯を食べた後帰って行った。
残された膨大な時間をどうするかという課題が迫ってくる。
大して楽しみもない。
おかしいな、仕事が続くと、家に帰ってのんびりしたいってあんなに思うのに、
今晩はひとりでいるのがもうしんどい。
今日は特に何かに没頭していたかった。
昨日観た映画のせいだ。少年たちと過ごせる母親の喜びを、奥の方で受け止めてしまった。
それで私が今晩したことは、
野田俊作ライブラリを30分間分文字起こしした。
『The story of Doctor Dolittle』 を9章まで読んだ。
アドラー心理学の勉強も、英語の勉強も、私のすべきこと。
本当はドイツ語もすべきことだけど。最近全然していない。
とはいえ、今日は意外と進めることができた。
現実逃避の手段としてはマシな方だろう。
ドリトル先生は、子どもの頃夢中になって読んだ本だ。
金曜ロードショーフリークの次男が、先週観たらしい。
原作とはあまりにかけ離れていたようだったが、面白かったと言うので
次図書館に行ったら借りて読もうねと話をした。
私は、どうしてもアドラーの姿をドリトル先生に重ねてしまうのだ。
貧しい少年を「スタビンズ君」と、大人のように呼ぶところや
動物たちの話を「聴く」ことによって、動物たちの不具合を工夫して癒すところ、
人々の常識に縛られずに、自分の良いと信じたことを為すところ。
生き物全てへの温かい眼差し。
この物語が、動物たちと人間とを同じ目線で見ようとするひとりの人間が、
西洋社会で生まれたということに、私は大きな意味があると思うようになった。
古代から近代までのキリスト教の、人間と他の生き物とを区別する思想は
未だに常識ではあるかもしれないけれど、それを超える考え方も、世の中に、ちゃんとある位置を占めているのだと思う。
それは児童文学や、もっと小さい年齢の子どもたちのための絵本の中に、ことを荒立てないように隠されているのかもしれないけれど。
そして日本人は、物語に流れている生き物全体への温かい眼差しを感じ取って、
様々な本を日本の子どもたちのためにと訳し、出版してきた。
子どもたちの未来を考えたときに、残せるものは、書物であるように思っている。
もう、私は古すぎるのかもしれないけれど。
これから先、紙の本はどんどん居場所を失っていくのだろうけれど。
でも、ひとりで本に向き合って、本に入り込んで、本にかじりつくことで、そうしなければ得られないものがあると思う。
私たち大人が、本の価値を低めているのではないだろうか。
私たちがあまりにスマホやタブレットにのめり込むから、子どもたちも同じようにしているのだと思う。
確かに便利になった。確かにいくらでも快楽を得られるようになった。
あっという間に時間が過ぎていくようになった。
大量に流れ込んでくる情報を、自分で咀嚼する時間などなくなった。
私もあまりにスマホに時間を奪われていたと反省している。
それで本を読み出したら、思った以上に時間の流れがゆっくりになった。
私の子どもたちもゲームを知ってしまったし、YouTubeで色々なものを見ている。
それを止めることはもうできない。
でも、そこでは手に入れられない楽しさを、良さを、本の世界を共有すること、映画や音楽や絵画の世界を共有することで知ってもらえたらいいのだと思うようになった。
一緒に本を読んで、一緒に映画を観て、それについて語り合うことで、
私たちは同じ物語を生きることができるようになる。
私が学んできたことを、同じようにして子どもたちも学ぶことができるのではないかと思っている。
幸せなのは、私も子どもたちと一緒に、再び学ぶことができることだ。
ただし、こうやって一緒に学べる時間は、多分、そんなに長くはない。
今を逃してはできなくなってしまう。
『君たちはどう生きるか』の映画の、大叔父さんが、
あまりにニーチェだよねって長男と言っていたら、
次男はアインシュタインだよって言った。
近代の西洋文明に絶望して精神を病んでしまったニーチェから、
原爆を作ってしまったことに絶望をした後、科学者たちが世界平和のために何ができるかと考えるようになったアインシュタインへ。
大叔父さんの変化は、そんな、『君たちはどう生きるか』という問いに対する答えの一つなのかもしれないねって、
私たち3人は導き出した。
次男と夏休みに博物館のアインシュタイン展に行ってみて、よかったんだなって思えた。
説明をしっかり理解しようとすると難解すぎて、
アインシュタイの発見を知るという体験コーナーは、デフォルメされ過ぎていて、
コンセプトとか心意気は素敵だと思ったけれど、私としては不完全燃焼だった。
でも次男は、私がパネルを見ながらした雑な解説を彼なりに受け取ってくれて、
世界のために自分の研究成果を生かそうとしたすげえ人、学校の勉強は嫌いだったけど好きなことを勉強し続けた人、として尊敬しているようだ。
今日、野田俊作ライブラリ「しあわせに生きる」を聞いていると、
ちょうど、偉人や市井の人々の伝記や生き様から学ぶことの大切さを野田先生が語っておられた。
全てが、意図せずに私が触れていく全てが、こうやって結びついていく。
私は子どもたちのために、私のできる限りのよいことをできているのではないかな、と思えた。
私がより学ぶことで、子どもたちのより良い学びに影響を与えることができるのだろう。
そう思うと、私ひとりの時間を無駄に過ごすことはやめられると思う。
最近、勉強に自信が持てなくなって、成績が落ちてきているという噂の長男と、今日は1時間半ほどガッツリ数学の勉強をした。
同じ年代の職場の子どもたちを教えているからわかるけれど、確かに長男は勉強不足であることがわかった。
でも、賢い彼は私の言うことをすぐに理解してくれて、集中して問題をたくさん解いていく中で、きちんと解けるようになった。
こんなことなら私は夏休みの間に特訓してあげたらよかったのに、と過保護に思ったが、いや、違うなと思った。
ようやく機が熟したのだ。
私が母親ペルソナを離れて、塾の先生ペルソナを長男に対して使えるようになるためには、
おそらく『君たちはどう生きるか』を長男と一緒に観ることが必要だった。
職場の子どもたちは可愛いし、とても大切だけれど、でもやっぱり自分の子どもは一番可愛いもの。
この強い強い愛情が、私の感情を揺さぶる。
あなたならもっとできるでしょ、もっと頑張れるでしょって、長男を追い詰めてしまう。
私にはそうしない自信がなかったから、そういえば、長男の中学受験について、私は一切口出しをしなかった。
それは、彼の課題を彼にお任せしていたという美しい言葉よりも、彼の勇気くじきをしないためにという、私の勇気のなさの方が、正確な表現であるように思う。
まあ、長男はとても真剣に受験勉強に取り組んでいたから、介入をせずにいてよかったと思うけれど、でも、もう少し私にできることを尋ねてみてもよかったかもしれない。
でももう今なら、私は、長男と勉強のことについて相談ができて、そして一緒に勉強することができる。
ここまで来るのに、時間かかったなあ。
「僕、お母さんに対しての反抗期は小学校1年生の時にもう終わったと思うんだけど、お父さんに対しては、ちょっとわかんない…」
と、勉強が終わってから長男がぽつりと言った。
そりゃそうだろうね。
私だって、ここまで、崖っぷちのギリギリまで来ないと、あなたに対して、本当にあなたを信頼して尊敬して、平等な立場で向き合うこと、できなかったもの。
あなたのお父さんは、普通の立派ないい人だから。
『君たちはどう生きるか』のお父さんによく似ているよねって、長男と次男が言った。
子ども思いでいい人で、立派な人なんだけど、過保護過ぎて、ちょっと自分勝手だよねって。
私もその通りだと思った。
だからね、あなたがお父さんに対して反抗期になったとしても、それは多分、あなたが順調に発達しているっていうことの証なんだろうと思うよ。
大変だなと思う。
でも、それはあなたとお父さんで乗り越えていくべきことなんだと思う。
私はあなたのお父さんとその点について一緒にやっていくことができないと判断して、違う道を選んだから、あなたの気持ちはよくわかる。
よくわかるけれど、そのことについて私は口を出してはいけないと思うから。
親のことで苦労させてしまうのは申し訳ないけれど、でも親も完璧ではない。
親を乗り越えていってほしい。
その過程で、大人になっていくんだと思う。
支配的な大きな存在としての父親がいるということ、この少年たちにとってはとても良いことだと思う。
たくましく育っていけるから。
今の時代、これはとても貴重なことだと思う。
私は、あなたのこの大変な境遇に、でも、感謝しようと思う。
あなたに起きるすべてのことはきっと、良いことなんだよ。