仕事の日程がうまく合わなくて、先週と今週は、子どもたちは日帰りで我が家に来てくれていた。
2泊ほどしてもらえる週もあれば、日帰りになってしまう週もある。
申し訳ないけれど、仕方のないことだ。
でも一緒に居られる時間は、お互いにより大切にできているようにも思う。
お仕事はどんなことしてるの?と聞いてくれるので、子どもたちと遊んでいることが多いよと話した。
長男「えー?お母さん、サッカーできるの?走れるの?」
「全然走れないよ。でもお仕事だから頑張ってるよ。それでめっちゃ筋肉痛になる!」
次男「そうだよねえ。じゃあ良かったらぼくが代わりにお仕事に行ってあげるよ〜」
「ありがとう」
長男「まあ、無理だけどね。でもサッカーとかだったらぼくも代わりにお仕事できるよ」
何年生がいるの?とか、どんな遊びしてるの?とか、興味を持って聞いてくれる。
積み木をジェンガみたいに積んで遊んだり、かくれんぼしたり、卓球したり、色々してるんだよと話したり、金色のチューリップの話をしたりした。
「プレゼントしてもらえて良かったねえ!お机に飾っていたらその子も嬉しいだろうね!」
長男も次男も、そう言ってとても嬉しそうにしていた。
私は、あなたたちと会えない時間に他の子どもたちと遊んでいるのに、
あなたたちは私が他の子どもたちと良い関係を築いていっていることを喜んでくれる。
私は本当にあなたたちのことが大好きだ。
一緒に暮らさないことを選んだ時点で、罪悪感という神経症的策動を使うことはしまいと決めたが、
時折、顔を出そうとすることがある。
でも、あなたたちに辛い思いをさせてしまっているけれど、あなたたちは大丈夫だ。
そう思えた。
学生時代のアルバイトで、公文とか塾の先生をやっていた時期が長かった。
子どもたちと関わる仕事はしたことがあったことを思い出した。
そして私はどの子もとても可愛いなと思って、子どもたちと付き合うことを楽しんでいた。
自分では自分を子ども好きな人間とは到底思えないのだけれど、
パセージのおかげと、私の子どもたちのおかげで、子どもたちとお付き合いすることが上手になってきたと思う。
今の職場で出会う子どもたちは、勉強という限定した場面だけのお付き合いではないので、より個人個人をよくわかることができて、より可愛いなあと思う。
「自分の子どもではないですからね」とか、「あまり思い入れすぎるのもよくないですよ」とか、「ある程度の線引きが必要になります」とか、
数名の心理系・児童福祉系のプロの方から直接言われたことがある。
もちろんその意図するところはよくわかる。
子どもの課題の肩代わりをしたり、子どもの課題に介入したり、子どもを憐んだり、子どもを支配しようとしたり、まあそういう害を為さないようにということだろう。
また、支援職の人たちのバーンアウトもかなり大きな問題らしい。
メシア願望が高ければ高いほど、勇気はくじかれるだろう。そういうことを防ぎたいという思いもあるだろう。
しかし私はこれらの言葉が使われる背後には、自分の子どもにはどこまでも介入して良いという前提を感じてしまう。
たとえ自分の子どもであっても、彼らの人生は彼らが決めるべきであり、彼らが自分の人生を決めて歩んでいけるよう、援助することが親の務めだと思う。
だから、愛情と、手の引き加減、子どもの課題を子どもにお任せするということは、また別の問題だと思う。
それを、「線引き」という言葉で表してしまうと、とても冷たくて傲慢な感じがしてしまう。
人間の関係というのと、介入などに表れる行為とは、別のものだ。
私は自分の子どもたちをもちろん、誰よりも大切に思っているが、
この職場で出会った子どもたちのことも、自分でも不思議なぐらい大切に思えている。
彼らの境遇がどうとかいうことは意識にのぼってはいなくて、
彼らが心を開いて私とまっすぐに向き合ってくれるときに、この子のために何ができるだろうかと、自分の子どもたちに対して思うのと同じように思う。
いつ別れの時が来るかはわからない。
たとえ明日会えなくなるとしても、もしそうであるならなおさら、今私にできることをしたいと思う。
この愛情の持ち方は、私が自助グループやパセージのメンバーさんたち、カウンセリングのクライアントさんたちに対して持つものと同じである。
私がこの子たちに対してできることは、本当に本当に、ほとんどないのだ。
それがわかっているから、私は自分を保っていられていると思う。
彼らを信じることしかない。
彼らに心を開いて、彼らが見ているものを同じように見ようとして、
彼らが見えていない彼らの素敵なところ美しいところを見つけて知らせて、
彼らが強く生きていけることを信じる大人として、向き合っていたいと思う。
そして多分、私は自分の子どもたちに対しても、それと同じぐらいのことしかできないのだろうと思った。
私が自分の子どもたちに対して良かれと思ってする全ては、自分のためだから。
彼らのためになっていると思えるときは、たまたま利害が一致しているだけだろう。
そんなもんだ。
でも、ずっとずっと関係を続けていけることが何よりありがたい。
昨日、小学低学年の子が、宿題を一緒にやってと言ってきた。
どんな宿題?と聞くと、コンパスとホッチキスの練習をすること、と言う。
器用な子なので、コンパスはすぐに使えるようになった。
ホッチキスを手渡すと、「これは危ないんだろ?」と、恐る恐る触った。
ホッチキスを触るのは初めてだという。
「どうやったら、ケガすると思う?」
「え?ここに指を挟んだらケガする!」
「そうです!じゃあ、どうやったら、ケガしないで使えると思う?」
「え、そりゃここに指を近づけなかったらいい!」
「その通りです!」
「じゃあ、こうやって使ったらいいんじゃない?」
右手でホッチキスをしっかり握って、紙のかなり離れたところを左手でつまんだ。
「あれ、硬い。えいっ」
左手を右手に添えて、両手でホッチキスを使い、紙を留めた。
「できた!」
「できたね!そうやって使っていたら、絶対ケガしないね。」
「うん。ほら、いっぱいできるよ〜」
緊張していた頬がゆるんできて、次々ホッチキスをガチャンガチャンと使った。
ホッチキスの針で、紙の周囲に渦巻き模様ができた。
「見て!こんなにできた!あとさ、これ外す道具もあるんだろ?」
「この後ろのところ使ったら外せるんだよ。」
「へえ〜!やってみよ。こうやって差し込むのかな?えいっ…やった!」
「できたー!」
「この針は危ないから、ここに置くといいんだぜ。」
「はーい。」
「もっと外そ。えいっえいっえいっ!ほら、3つもできた!」
本当に練習熱心な子だ。
「紙にひっついていて手でつまむのが難しいときはな、こうやってホッチキスの先ではさんで、引っ張ったら…ほら、上手に取れた!すごいだろ!」
「ほんとだ〜」
「やってみて。できる?」
「うん、やってみるね。こうやってはさむの?えいっ」
「ほら、できただろ?おれ発見したんだー」
「ほんとだね。もうすごく上手に使えるようになったね。あとは、針を入れ替えるのやってみよっか。」
針の入れ替え方もマスターした。
「素晴らしいです。これでホッチキスについて、私が教えることはもう何もありません!」
「イエイ!俺、もうホッチキスのプロだぜー!」
「うん、プロだね!」
「もう一周、ガチャンガチャンしよっと。」
そして彼は誇らしげに出来上がった力作を持って、仲良しの他のスタッフのところへ、
「見て!俺ホッチキスのプロになったからな!」と走って行った。
子どもの生活は、新しいことを学び続けるものなのだと知った。
子どもにとっては、できないこと、知らないこと、初めてのことばかりなのだ。
だから大人や年上の子どもたちは、何でもできるように思えて、自分は劣等の位置に落ちる。
このメカニズムについてアドラー心理学で学んでいて良かったと思う。
私自身もとても劣等感の強い人間だったけれど、自分で苦手だと思うことでも、そこそこ人並みにできることの方が多いようだと、最近やっとわかってきた。
子どもたちが、不必要な劣等感を持って、自分で勇気をくじいたりしないように、
失敗したって大丈夫で、失敗から学んでいくんだって、
自分にはいろんな能力があるし、仲間だっているんだと思えるように、お手伝いしたいと思う。
目の前の小さい小さいできごとを、かけがえのない物語として、大切に生きてみたいと思う。