かささぎ座に参加してから、私はずいぶん自分を操縦しやすくなったと感じていて、
そんな自分を気に入っている。
体調に合わせて食べ物を選んだり塩加減を調整したりするように、
私は自分の状態に合わせて音楽や本を選びたいらしい。
私は自分をうまく制御できることを望んでいるらしい。
その制御というのは、本当に多岐に渡っていて、
おそらく私の美的感覚ともかなり深い繋がりがあるように思うが、今日はそれについては触れない。
私は、今、劣等の位置に落ちている。
なぜかというと、職場で平等の位置に戻れず、Kちゃんと権力争いをしてしまったからだ。
なお悪いことに、私はオンライン勉強会や講座で一緒に学ぶ仲間たちから、アドラー心理学の良い実践ができていると思ってもらえているようで、
(最近メッセージをくれたあなただけではなくて)
人の思う私と実際の私だと思う私とが乖離していることについて、きまり悪さを感じている。
こういうきまり悪さを、私はあまり感じることなく生きてきたので、
実はこれはかなり新鮮な心境で、ひとりで自分の成長を感じて喜んでいるところである。
今まではどうだったかというと、人の思う私が、実際の私よりも良いものだと思えた場合、
その良いように映る自分になろうとしたり、そういう自分であるふりをしたりして、
上手に演じられるように自分を制御しようとしていたように思う。
時には成功し、時には失敗し、時には成長しただろう。
いずれにしても、緊張度は高かったと思う。
今のこのきまり悪さはどういうものかというと、
陰性感情の点数としてはそんなに大きくはない。−0.5ぐらいだろうか。
ああ、あの人は私を良いように思い込んでいるんだなあ。違うのにね。という、うっすらとした劣等感である。
そう思い込んでいただけることはとても嬉しいしありがたいけれど、実際は違うと思う。
でも、その思い込みを変えなければとは思わないし、
その思い込みが違うことを証明しなければとも思わないし、
その思い込みを実現しなければとも思わない。
私は、他の人の私に対する思い込みを、どうぞお好きになさって、と思えるようになったようだ。
ということは、今までいったいどれほど強く、他人に私を演出通りの私として思い込んでもらいたかったのだろう。
練成講座の2日目、安心できるふたりのメンバーさんに、私の事例を取り扱ってもらった。
私のストレンクスとして、「明るい」というのを出していただいた。
ヘえーそうなんだ、意外なことだと感じた。
一緒に学ぶ友だちの車に乗せてもらっての練成講座からの6時間以上もの長い長い帰り道、その話をした。
「美穂さんは明るいと思いますよ」、と笑って言われた。
「うん、明るいと思われているのはわかるんだけど、私自身は明るい人間だとは思わないんですよ。」と答えた。
明るく振る舞うことはできる。それが私のストレンクスだというのは、確かに納得できる。
その明るく振る舞う力を、様々な場面で使っていこうと思える。
だから見つけていただけてとてもありがたかった。
でも、私は自分自身を明るいとは思えない。
明るくはないけれど明るく振る舞うことができる人間なんだと思う。
まあ、そういう人のことを明るい人と呼ぶのならば、明るい人だと言えるのかもしれないけれど。
なんていう小難しいことを、しつこくしつこく考える人間なのである。私は。
私はこういう人間を、暗い人間と定義している 笑
なので、私は自分をわかり辛くて暗い人間だと思っている。
…こんな小難しい話を面白がって聴いてくれて、
「ああ、そういう意味なら、確かに、明るくないと思うっていうことがわかります。」と言ってくれる友だちがいることをとてもありがたく思った。
そして私には、こういう話を率直にできる友だちがたくさんいるのだ。
こんなに「私について」ばかり話すのが好きな私に、お付き合いくださってみなさん本当にありがとうございます…!
練成講座の1日目の事例では、私は情報をわかりやすく伝える力があるというストレンクスを出していただいた。
これも、少し意外だった。
私がそう話すと、ハンドルを切って大きなカーブを曲がりながら、「美穂さんの聡明さはどうやっても隠せないと思いますよ」と友だちは言ってくれた。
「そうなんですね。でも、私はいつも小難しくてめんどくさくてわかりにくいことばっかり考えてるから、どうやってそれを他の人にわかりやすく簡潔に上手に、そしてできる限り楽しく伝えられるかなって考えているんです。」
「じゃあ、グループの話し合った内容をまとめて発表したあの発表について、自分の出来栄えについてどう思ったんですか?」
「話、長っ!て思いました。」
友だち、爆笑。
「あーまた喋りすぎた。うまく話せないっていつも反省してるんですよ。」と私は言った。
話すことはいくらだってできる。
でも、人に正確な情報を的確に簡潔にわかりやすく伝えることは、うまくできないと思っている。
この「うまく」というのが、私の優越性の目標をはるか彼方の高みへ押し上げる。
私は合格点のラインを超えているからといって満足できはしない。
誰よりもうまくやりたいのだ。
そんなこと、不可能なのにね。
だから、私はすぐに劣等の位置に落ちる。
今はもうそのカラクリがわかったから、私はもうあまり自分が劣等の位置に落ちることへの動揺がない。
そして、他の人に本当の私をわかってほしいと欲することそのものが、
まず「本当の私」というものがないこと、
それぞれが私であるかのように思い込む私という捉え方しかできないということ、
他人を制御はできないということ、
などから、達成不可能な目標であることがわかったため、人が私をどのように思うことも、お任せしようと思えるようになった。
kちゃんとの権力争いについてはまた後日。