今日はカウンセリングと、オンライン事例検討会だった。
カウンセリングは相変わらずもたもたしていた。
だけど、練成講座でエピソード分析を用いたカウンセリングの実習をさせてもらって、
たくさんの仲間とシェアリングをし合って、
私はもたもたするのも大事だと思えるようになった。
特に私は、ライフスタイルに従っていると自分がぐいぐい引っ張っていってしまうタイプなので、
クライアントさんを置いてきぼりにしてしまいやすい。
そういう自分の傾向を制御して、私の持ち前の不器用さを生かして、
もたもたしながら、クライアントさんと一緒に物語を味わうということは
おそらくぐいぐいするカウンセリングよりは、良い作用があるだろう。
私が技術を上手に使えるようになると、もたもたでなく、もちろんぐいぐいでもなく、
ゆったりとしたカウンセリングができるようになるのではなかろうか。
道は遠いが、決して遠ざかっていってはいないと思えるようになった。
私は不器用だ。
これは根幹にある私の劣等感である。
手先や体を動かすということも不器用で、したがって運動や楽器の演奏なども下手である。
さらに、新しい理屈を理解したり新しい概念を理解したりすることも時間がかかる。
新しいルールや作業や環境に適応するにも時間がかかる。
子どもの頃、「どんくさい」とよく言われていた。
「あなたはこんなに頑張ってるのに、なんでできないんやろうね…」
と、幾度となく言われ、
そんなん私が知りたいわ!と泣きたくなっていた。
でも、悔しくて泣いたりしながらも、それでも頑張り続ける子だったように思う。
結局できなかったことばかり思い出すけれど、あきらめることはなかったと思う。
不器用だからこそ、私は粘り強くなったのかもしれない。
どうせ物事は思った通りにうまくはいかないと思い込んでいるから、やり始めてうまくいかなくたって投げ出したりしない。
試練がやってきても、うんざりするけれど、逃げ出したりしない。
それは多分私のストレンクスなんだろう。
早期回想の冒険を仲間と一緒にし始めてから、
私は劣等感に正面から向き合えるようになった。
そして、仲間と一緒に野田先生の論文やライブラリを学ぶことで、
劣等感の中に、その人が良くないと思っているその中に、その人の良さがたくさん詰まっているのだと気づいた。
劣等感は宝物だと思えるようになった。
長所と短所は裏表。
それはアドラー心理学に出会うとかなり早い段階で学ぶことだと思う。
ひとつの特徴の、どちらの側面から見るかの差異によって、長所にもなり短所にもなる。
そのことと全く同じことで、
劣等感と優越の目標も、ひとつのライフスタイルの、どちらの側面から見るかという差異なのだとしみじみ思う。
優越の目標は確かにキラキラしているけれど、それを追求することは自己執着であると、
練成講座で学んだ。
劣等感にこそ、その人の愛(かな)しさがあらわれるように思う。
自分で自分の劣等感に向き合うには大変勇気がいるけれど、
正面から向き合って、自分が嫌だと思っていた自分の姿が思いがけず良い面を持っていることに気づけたら、
そういう自分もいいものだなと思えるようになる。
そうすると、自分をどうやって世の中の役に立てていけるか、考えられるようになる。
小さくて愚かでわがままな自分のままで、貢献しようと思えるようになる。
そんな風にクライアントさんが勇気を持って生きていけるように、援助をするのがカウンセラーの役目なのかなと思う。
一体何にそんなに落ち込んでしまったのかなって、クライアントさんの目で見て耳で聴いて心で感じたいと思う。
クライアントさんが劣等感に向き合うことを怖がらなくなった。
自分の劣等感に気づき、言語化していくクライアントさんを素敵だなと心から思う。
私は傍にいるから。
傍にいて、いつだってあなたのその勇気に感動をする。
あなたの語る全ての物語の素晴らしさに、ライトを当て続ける。
ライトを浴びて、もう一歩踏み出せると信じて、決意する瞬間の人を、私は何よりも美しいと思う。