昨日は野田先生の論文のオンライン勉強会、
今日はリディア・ジッヒャーのオンライン抄読会。
日中は昨日も今日も雑用。
今日の抄読会で、幼い子どもは「自分は無力で、大人はなんでもできる」っていう思い込みを持つという話があった。
そしてそういう大人と子どもである自分という関係性について、
いつも大人が上のところにいて、自分は下のところにいるという固定的な関係であるという空間的な思い込みと、
いつまでも大人は大人のままで、自分は子どものままだという時間的な思い込みを持つという話もあった。
私は自分の能力について、とても劣等感を持っていた子どもだったと思う。
この能力というのは、手先の器用さ、物の操作や運動能力など、身体を動かすことにまつわる能力だ。
運動能力は、瞬時に様々な判断を身体の動きと結びつけるということだと思う。
私は、ゆっくり考えて、考え抜いてから動き始めたいのである。
瞬間的に自分の意思と全く異なる意思による働きかけが次々とやってくるスポーツというものは、私にとっては目の回るような速さで、判断が追いつかないし身体も追いつかない。
この能力について私が劣等感を抱いたのは、
私の両親がひじょうに愛情深くて過保護であったことも関係するだろう。
例えば、私が怪我をしたり疲れたりすることをとても心配したり、
私の苦手を何がなんでも克服すべしとは決して言わなかったり、
不器用でうまくできないけど一生懸命にしようとする私を可愛がっていて、ほんまに運動苦手やなあ〜、絵描くのうまくならんなあ〜ってにこにこしていたり、
そういう態度や言葉で私に対していた。
また、私の両親がけっこう器用な人たちであったことも関係があるだろう。
そして私は、自分は運動が苦手である、不器用であると思い込み、それらを克服しようとは思わなかった。
不器用でいいんだとは思っていないが、なるべくならその能力を使わないですむように生きていこうとしてきた。
訓練して上達しようなんて思えなかった。
私が訓練して上達できるなんて、とても思えなかったから。
だからけっこう、私は劣等感が強いと思う。
その代わりに、その能力以外のところを伸ばして、多分過補償気味に補償して、生きてきたんだろう。
例えば、勉強とか、言語表現とか、音楽とか、対人コミュニケーションとか、あとは深く考えること、そういう能力を伸ばすことに一生懸命になってきたと思う。
でも最近私は、自分で思うほどには、そんなに極めておそろしく不器用だったり運動ができなかったりというわけではなかったんじゃないかな、と思えるようになってきた。
私だって訓練したら、とっても上手にはならないまでも、人並みにできるようにはなるんじゃないかなって、思えるようになってきた。
今、色々な劣等感に向き合う日々なのだが、そう思った。
特捜隊の仕事に就くということは、私の劣等感に向き合うというタスクの連続である。
でも、明らかに苦手なことに挑戦しようとする私を、その日初めて出会うような人たちが、ある種の感動を持って驚いて見て、応援をしてくださる。
私は毎日毎日、私は不器用だなあと劣等感を味わうのだけど、みんな私の仲間だなあって思えてしまう。
そもそも私、初対面の人と話すのも苦手なんだけども。
だから、やっぱり私には努力する能力や、自分の居場所を作っていくっていう能力はあるなって思える。
これはもしかすると私が不器用だからこそ、得られたことのなのかもしれないって、そんな風に都合よく考えてみたりした。
劣等感に向き合うのは好きではないし、訓練も嫌いだ。
苦手の克服なんて別にしなくていいと思っている。(さすが甘やかされた子どもだ!)
でも、嫌々ながらも、真面目に取り組む私のことはけっこう好きだ。
そのことによって、過補償気味な色々な私的感覚が緩んできたようにも思う。
私はこの過程を経て、またもう少し成長できるように思う。
結局、けっこうスパルタな環境に身を置いてしまうんだ…。