木々がざわざわ揺れている。
妙に暖かく、風が強い。
今日も今日とて波乱の日だった。
「虚しく思えてしまうこともあるけど、我々は決してあきらめずにやっていきましょう。」
ミーティングで、いつもは明るい上司が、沈んだ様子で自分に言い聞かせるように言っておられた。
みんな本当に心を込めて、利用者さんと子どもたちの幸せを願って、働きかけているのだ。
けれども我々の理想は決して実現しない。
ひとつひとつ積み上げたものが、やがて全て壊されると知っていながら、積み上げ続ける。
こちらがどれだけ働きかけても、支援は不要だと言われれば、何も手助けすることができない。
役に立つかどうかという視点からは、それは無駄で虚しくなるだろう。
時々、仕事中に、私は一体何をしているのかなあと思うことがある。
私の子どもたちと過ごす週末が私の生きる時間で、職場で私は大いなる暇つぶしをしているんだろうと思ってみたりもする。
熱意溢れる職員さんたちは、不適切な行動をする母親たちに対して、もうどうしようもないと思って、陰性感情が抑えきれなくなっていたりする。
確かによくない行動をしている。けれど、行為と人格は別だ。
母自身もサバイバーで、適切な行動を知らなかったり、適切な行動をしたり適切な選択肢を選んだりする勇気が持てないでいるのだ。
子どものためという言葉が意味するものが全て自分のためであったりしても、過剰に良い母親を演じてみせていても、
彼女たちは自分を認めてもらいたがっていて、誰かを傷つけるために不適切な行動をしているのではないのだと、
必死の適応努力でよくないことを引き起こしている「かのように」思って、彼女たちに向き合い続けたいと思う。
彼女たちには友だちもほとんどいなくて、頼れる親もいなくて、過酷な環境を生き抜いてこられた。
そのことを思うと、よくここまで来れたね、よく今まで生きてこられたね、と思う。
たくさんのストレンクスを活かして、人々と衝突しながら、大変な目に遭いながら、それでも何とかやってこられた。
そのたくさんのストレンクスを、もっと世の中に貢献的に活かすことができればなあと思うけれど、その方法を一緒に見つけられたらいいなと思うけれど、
そんな高望みはしてはいない。
きっと学んではもらえないだろう。
いいのだ。私からそんなことを教わろうなんて思っていないのだから。
自分で育てたいばらの藪に突っ込んでいく人生を選んだのは彼女たち。
子どもたちに大変な思いをさせ、全ては元夫のせいだと思い込んで。
でもその人生を救って矯正するなんて、誰にもできない。
彼女たちがいばらを刈ろうと思って手伝いを依頼してくれたら、初めて協力することができる。
私は彼女たちを裁かずにいたい。
逃げて逃げていばらの道に飛び込んでも、人生は簡単には終われないって
多分絶望している彼女たちを、愛(かな)しく思う。
たとえ私が彼女たちの味方になれたとしても、きっと事態は何も変わらない。
でも、彼女たちに雨宿りするぐらいの居場所でもあればと思う。
雨が降ってきた。木々がざわめく。
どんな日でも、生きていかなきゃいけない。
チェーホフが書いている通りだ。
「ワーニャおじさん、それでも私たち生きていかなきゃいけないのよ。」
一緒にこのろくでもない日々を過ごしていこう。
この時間を空間を共にできること、不思議なご縁だと思う。
出逢ってやがては別れる私たち。虚しすぎるね。
でも生きていくってそういうことなんだろう。
だとすればこの関係の中にも、美しいものがあるはずだ。