この1週間は、ほぼ毎日友だちや私の子どもたちと過ごす時間があり、オンライン勉強会にもたくさん参加できた。
私がオフの時間に出会う仲間は、アドラー心理学やパセージの考え方を良いと思ってくれている人たちだ。
同じ価値観を持っている人たちだ。
私は母国語で話せているなあと思う。
私の意見を素直に表すことができる。
そして、みんなの話を聴くと、なんて一生懸命に自分のすべきことに取り組み、周りの人々と良い関係を作り、幸せを作っていっているんだろうと感動する。
こんな仲間たちの中に私は所属できているから、私は健康に幸せに生きていられるのだとわかる。
とてもありがたい。
仕事はお金を稼ぐための手段であり、母国語の通じない社会でいかに私が私を役に立つよう使うことができるかという修行である。
私のしたいことをするために必要なこと。
そんな風に唾を吐きながらも、楽しいことだって嬉しいことだってたくさんある。
多分、適性があるんだろうと思う。
必要悪としての施設だと思うから、やりがいなんて感じたいとは思わないけれど。
でも、好きになれないなと思っていた職員さんの素敵なところも、見つかってしまった。
一緒のシフトにならなければいいのにと思っていた職員さんとも和やかにお喋りできるようになって、本音やグチを聴かせてもらう場面も増えてきた。
順化してしまっている。
大したエネルギー(緊張)を使わずに運転できるようにもなった。
ここでの一般的な職員の対応に、いちいち感情を動かすことがなくなった。
順化してしまっている。
ある面ではいいことでもあるだろう。
緊急事態の日々のこの日常に慣れてしまって、小さな小さな変化に喜びを見出してしまって、
外の世界の当たり前の幸せに触れたとき、ああそうだここは違う世界だったとあらためてびっくりしたりする。
利用者さんたちのことを大切に思い、互いの心が近づいてきた。この特殊な環境で共に生きる仲間になってきた。
しかし、その方たちの問題をその方の「特性」という言葉でその方に帰属させることへの違和感が薄れてきてしまった。
問題は問題。解決すべき課題であり、治療すべきポイントであるという意識が薄れてきているかもしれない。
それはよくないことだと思う。
二重見当識を保たねばならない。
例の如く、具体的なことが書けないのだが…
数週間前、ある利用者さんに大変なことがあって、あるベテラン職員さんもひじょうにテンパってしまって、
でも私が話を聴かなきゃいけないから!と、自分を奮い立たせていたことがあった。
今は危機介入をすべきタイミングだが、この職員さんは大丈夫かな?利用者さんにとって援助的な働きかけができるかな?と、私は不安になった。
職員の対応によって、利用者さんの感情がより乱れてしまうのは危険である。
ただ、ベテラン職員さんを差し置いて、私が話を聴きに行きますと言うことは私にはできなかった。
そこで、その職員さんが席を外した少しの間に、こっそりと上司に私の不安を伝えた。
その上司だけには、私はアドラーの話や物語についてを話すことができていて、
上司は「Mさんの意見や見解を他の職員にも広く伝えてほしいです。私自身はとても勉強になるし助かっているから」、と言ってくださる方だ。
上司の判断で、よければ私を行かせてくださいと伝えた。私は感情を落ち着かせる対処はできますから、と。
上司は、ありがとうございますと言ってくださったが、ベテラン職員さんが対応をされた。
結局、その利用者さんはより大変な事態になるということはなく、気丈に振る舞っておられた。
先日、久しぶりに上司とふたりっきりの時間ができたので、その日のことについて話をした。
「ベテラン職員さんが不安だから私が行きます、と差し出がましいことを言ってすみませんでした。テンパっておられたけど、技術的なところがどうこうではなくて、あの愛情たっぷりの、懐の深いお母ちゃんとしての職員さんたちによって、この施設は成り立っているものがあるんだなって学びました。」
「いいえ。それは、そう。そうなんだけどね、それだけではダメなんです。
本当に、そういう、可愛い可愛い、よしよし、私たちがどうにかしてあげるっていうだけでは絶対にダメで、専門的なところも両方必要なんです。
でもどうしても、おばあちゃん的立場というか、ここはそういう方に傾きがちなんですよ。今も実際、そっちに傾いてます。」
「そうなんですね。うーん…。確かに、Zちゃんへの対応で、お母さんが落ち込んでしまったことがありましたね。」
「あれは本当に、いけなかったですね。後で言いましたけどね、指摘するまであの職員さんはどういうことが起こっていたのか、気づいておられなかったです。
私がここに入った時は、今よりもっともっとお母ちゃん!なベテラン職員さんが多かったんですよ。専門的なこととか私らわからんけどいいの、我が娘のように可愛い、なんでもやってあげるからっていう感じのね。私は、へーって圧倒されてたんだけど。
でも私も上司に、ある利用者さんについて、入り込みすぎだってすごく怒られたんですよ。ちゃんとわかってます、私は分けれてますって言ったけど。
わかっていない、おかしいよそれは。入り込みすぎだ、普通の関係じゃない、あなたなしでいられなくなってしまっているでしょう、それは危ないですって。
怒られてもなかなか私はわからなかったんですけどね。なんとかしてあげたいっていう気持ちが先走りすぎていましたね。でも、その利用者さんは…やっぱり他の方とはちょっと違ったっていうのはあるんだけど。」
上司は一瞬、私を置いて回想の中へ還られた。少し目が潤んでいた。
今、困ったちゃんの利用者さんたちに対して、あたたかく受け止めながらも、優しくきっぱりとすべきことすべきでないことを話していかれる上司にも、ここに至るまで多くの失敗があったのだと知った。
「失敗しても私たち上席者がなんとかできるから、Mさんのいいと思うことを色々試してみてほしいです。利用者さんたちのこと、ほんとによく見ておられると思いますよ。大丈夫です。」と先日言ってくださったことも、これまでの上司がこの上司を育ててこられたからなんだと感じた。
この上司について、他の全ての職員さんたちと違うなと感じるところは、
肚の座り具合なんだろうと思う。
キラキラ輝いている目は、他の多くの職員さんたちも同じ目をしている。
でも、判断するときに無難な道、事なかれな道を選ぶことが最善とされやすい、市や県が措置元となる施設に居りながら、
利用者さんのために思い切ったぶれない決断ができるのは、この方のおかげだと思う。
この上司のもとで、いや、たとえこの上司が去ってしまったとしても、
私は全く異質の存在として、ひとり、美しい物語を描き続けてみようと思う。
そうしながら、ひとりひとりの心が健康になれるように、治療という視点から関わってみようと思う。
砂漠に水を撒くような、波打ち際に城を作るような、そんな環境だけれど、
それは他の職員さんの対応が砂嵐だったり波だったりすることも多いのだけれど、
でも、だからといって、私がすべきことに変わりはないのだから。
ということは、
私はまだ、世界を変えようとしているんだろうな。
私の子どもたちへのこの一言がこのまなざしが、世界を変えるなんて。
でも、私の仲間たちが先生方が幼い頃の私の子どもたちへ撒いてくださった種が、今十分に花を咲かせていることを感じているから、
私は絶望することができない。
汚泥の上澄みを愛でるような毎日だ。
だけど、状況は変わらなくても、物語は変えられるから。
私は私のすべきことをしよう。