After Hours

その日の仕事帰り、別世界の扉へ向かって夜道を歩き始めた。

稲光が雲を照らす。雨が降りそうだ。

少し迷った。あと少しで確実に大雨になるだろう。

でも、今晩はまたすべてを忘れて音に浸りたい。

次の日はゆっくりできるから、濡れてもいいや。

贅沢すぎる?…でも、次はいつ行けるかわからないから。

新しい、私の場所へ。

 

先週とお馴染みの顔ぶれ。

その他にも、NY在住のプロのベーシストがたまたま来られていた。

この夜は、オーナーのピアニストのHさんも何度も演奏されていた。

なんて強い力なんだろう!
様々な音色。重たくて、輝いていて、もっと聴いていたい。

 

ジャズはテーマの決められている会話なんだなと思う。

プロであればあるほど、メンバーの音をよく聴き、様子をよく見ている。

わずかなアイコンタクトで方向が決まっていく。

予定調和を嫌う強い個性の音たちが、探り合いで始まりながら曲が進み、すべての音が調和する瞬間がある。

その瞬間を私は求めている。

そしてもう私はそれを私自身の快楽として味わうのではなく、供養と回向という世界への還元のために受け取るようになった。

 

窓に雨が叩きつけている。時々稲光が暗闇を照らす。

ライブが終わったAfter Hoursに、ドラムの若者がプロのベーシストさんに稽古をつけてもらっている。

サックスやギターの人たちの談笑に交じってみる。

ここが自分にとっての非日常。ここがあるから、日常の仕事を頑張れる。そうやってバランスを取っているんだと言われる。

ああ、私と同じだ。

 

珍しくお酒の力を借りて、思い切ってオーナーのHさんに話しかけてみた。

音楽生活50周年記念コンサートというポスターがあったから、70歳近いのだろうか?溌剌とされていてとてもそんな年齢には見えない。

カリスマすぎて話しかけにくい。

けれど、気さくに話をしてくださった。

「ジャズって会話なんですね。何が起こるかわからなくてわくわくします。同じ曲を演奏しても、たった一回しかなくて。」

 「そうなのよ。1回1回ね。」

「すべてがひとつになるあの瞬間を味わいに来ているんです。やったあ!って思うんですよ、私は何もしてないんだけど 笑」

 「うん 笑 あれがね…いいわよね。」

 

バーカウンターの向こう側からトランペットの若者が、Hさんに「今日はダメでした…すみませんでした…」と話しかけた。

 「何がよ。」

「いやー…今日はこう演ってみたいっていうのがあって、イントロで思い切ってやってみたんですよ。」

 「うん。」

「そしたら、なんかみんな、応えてくれなくて、あれ、これは違ったんかなって思って、演りにくいなって思って…」

 「ふーん?」

「で、もう一回は演ってみたんですよ。これでやってみたいんすよって。」

 「うん。」

「でも、全然みんなは違ってて、あ、ダメだったんだって思って…。そういうときってどうしたらいいんですかね。もうねー、ほんとへこみますよ。」

 「笑 それはさ、こうやりたいんだって音出すしかないんじゃないの。そうでしょ?」

「はい…」

 「だってそうやって音出していかないと、わかんないじゃない。でも、出したからってみんながそれに合わせてくれるとは限らないわよ、それは。」

「そうですよね 笑 あー、ちょっと僕、甘やかされてたかもしれないですね。 笑」

 「大事にしすぎたかしら?私たち 笑」

「いえいえ!ありがとうございます。ちょっと整理できました。わけもわからず家帰って泣いて寝るところでした。」

 「そうなの? 笑」

 

彼とHさんのやり取りを見ながら、ここもひとつの鍛錬の場なのだと感じた。

私たちは仕事という現場から非日常を求めてここへ来るけれど、このステージに乗る人々にとっては、ここが現場だから、色々あるんですね、とHさんに話した。

これからはステージ上のそういう人間模様も見てみたいと思います、と言うと、

そうよ、それも楽しいわよと笑っておられた。

 

常世界への扉を開けると、雨粒はすべて地面に落ちていた。

私の帰り道を祝福してくれるかのようだった。

部屋にたどり着いてソファーに寝転がると、また雨音が聞こえ始めた。

 

 

人が集まるところには、必ず人間関係が発生する。

その様々な関係が、よりよい響き合いになればいいなと願う。

よく聴いて、うまく主張すること。

きっと素晴らしい音楽を奏でるのに必要なことが、よい人間関係にも同じように必要なのだろう。

 

 

☆☆☆

 

先日、武道具屋に長男とふたりで行った。

部活で注文したものができあがったから取りに行くんだって言うから。

そのお店はたまたま私の家の近所にあって、初めてのところに私はわくわくしながらついて行った。

「ここで靴脱ぐんだよ。」と言って、きちんと脱いだ靴をそろえて、失礼しますと言って引き戸を開ける長男。

広い畳の室内には、胴着や竹刀や、色々なものが並べてある。

小さなおばあさんが、「はい、はい」と奥から出て来られた。

「こんにちは。」と頭を下げる長男。

 「ああ、1年生さんやね。出来上がりましたよ。はい、これでしたね。」

「ありがとうございます。」

 「そうそう、この前先生に言われてたの、聞いてるかしら。マウスピースはどうされるのかなって話なんだけどねえ…」

ふたりで少し話をして、長男は何かを顧問の先生に言付かっていた。

 「それじゃあね、頑張ってくださいね。初めは大変だけど、頑張っていたら必ず上手になるからね。みんなそうですからね。」

「はい。ありがとうございます!」

 

おばあちゃんの家のような静かな佇まいのお店に、ずっとずっと昔から変わっていないようなおばあさんがおられて、

こんな風にあたたかいやり取りを通して、若者たちを陰ながら見守ってくださっているんだと知って、本当にありがたく思った。

レジもほとんどがセルフの機械になってきた近年、お店の人との人間的なやり取りさえもとても貴重になってしまったと思う。

長男は、きちんと、教えを受ける者として、目上の人たちを敬いながら、自分を鍛錬していこうとしているんだなと感じた。

立派な若者になったなと思った。

技術を身に付けるということを通して、人として大切なことを学んでいっているのだと思う。

それも、楽しみながら、仲間と協力し合いながら、部活を頑張っている様子で、本当に嬉しい。

あなたについては、私は本当にもう何も心配なことがないんですよ。

そして周りの人々にとても恵まれていると思う。それはきっとあなたの良いカルマのおかげなのでしょう。

 

☆☆☆

 

 

時々一緒に勉強する中学生のNくん。

学校から帰ってくるなり、「ちょっとまじで明日学校行きたくないんですけどー!」と声をかけてきた。

「どうしたの?」

 「いやーもうさー、明日3校時から来いって言われてさー、わしほんと限界なんですけど!」

不登校気味だったNくんは、今はなんとか欠席しないで毎日行こうとしているのだけれど、

少し前からクラスが落ち着かない状態らしく、授業がよくストップしたり色々問題があり、登校しづらい様子だ。

ゆっくり話を聴きたいなと思ったから、調理室でふたりで話をすることにした。

いつもだったらNくんの話を聴いてくれるベテラン職員のお兄さんたちお姉さんたちが、ちょうど席を外していたりして、私が対応できるよい機会だった。

今まで勉強についてしか話したことはないけれど、私にも困ったことを話そうと思ってくれたみたいで、とても嬉しい。

 

担任の先生が、クラスを良くするためになんでも言ってほしいって言われたけど、

こういうところが困る、と他の生徒が言うと、「マイナスな発言はやめましょう」と言っていつも取り合ってくださらない。

Nくん自身は、なるべく感情を抑えてノートに意見を書いて提出したが、

「でも、相手も悪気はないんだと思いますよ。声をかけてあげてください。」というコメントが返ってきた。

真面目なNくんは、グループ活動の班長に指名されたり、クラスの雰囲気を良くするために重宝されている様子だが…

「別に頼られるのはいいんだけど、騒いだもん勝ちっていうか、こっちは全部、我慢できるだろって言われてるみたいで、

結局先生は話聞いてくれないし、なんかもうしんどい…」

「だいたいさ、マイナスな発言はダメって言われたら何も言えなくなるじゃん。

改善すべきこと言ってるだけなのに。まあ、確かにあの子の言い方は悪かったかもしれんけどさ。

でも、だからってその意見すべてをはねのけるのってなんなんだって思うわけっすよ!」

 

クラスの様子について、先生のことについて、クラスメートの発言について、Nくんが色々と話してくれることがどれも、私には素敵だなって思えて仕方がなかった。

クラスに彼の居場所があって、クラスを良くしようと思っていて、そのために自分にできることを模索しているんだって感じられたから。

数か月前までの彼は、自分の身の回りのことだけで必死だった。

徹夜でゲームをして、学校にはほとんど行けない日が続いていた。

でも彼はもう、自分の布団から出て、世界に飛び出して行けた。

しかも、「わしゃ勉強したいんよ。授業聞いてたらわかるようになったし。

授業妨害さえなかったら、ちゃんと学校に行って勉強しようって思っとるわけよ。

でも今の状態だったら勉強できんし、困るんだわ。」と言うのである。

本当に、どうしたの?テスト受けてもどうせできないから行かないって布団に潜り込んでいた君は、どこに行ったの?

悩んで、怒っているけれど、輝いているよ。

 

「今、君は教科の勉強なんかよりもずっとずっと大切な勉強をしているんだなって思うよ。」

「…確かにそうだなー。」

「しんどいと思うけど。でもそのしんどい中でも、ほんとに一生懸命頑張ってるって思うよ。」

 「おう!」

「私たちは、学校に何が何でも引きずって行こうなんて思ってなくて、ちゃんと継続して学校に行けるように応援したいと思っているんだよ。

だから、今は無理をしないで、少しだけでも行けたらいいと思う。例えば明日は、グループワークの時間だけ行ってみるのはどう?」
 「うん、その時間だけだったら行ける。」

「そっか。」

 「グループワークは、わしがおらんかったら他の子が困るから、それは行かなきゃならんからな。」

彼は自分のためではなくて、みんなのために頑張ることに決めた。

それから、「落ち着いた環境で勉強したいんだっていうことを先生に伝えてみるのはどう?」と言ってみた。

 「おー!それはいいと思う。」

「マイナスの表現はダメってことなら、プラスの表現だったら、聞いてくださるんじゃないかな?」

 「なるほどね。」

「先生もクラスを良くしたいって思っておられるのは確かでしょう。先生にも、悪気はないと思うよ 笑」

 「それはそうだ 笑 ま、やり方はどうかと思うけどね。でも、それならわかってもらえると思う。」

Nくんは晴れやかな顔をして、「ありがとうございました!」と頭を下げてくれた。

立派な若者になっていっている。

私は本当に、君の変化がまぶしい。

 

 

☆☆☆

 

 

年をとるということは、若者たちの成長を手助けできるようになるということだ。

そんな喜びを得ることができるのだと知った。

かつて自分が必死であがいていた若者だったからこそ、今の私は彼らの苦悩も努力もわかる。

そして今は、それがどれほど輝かしいことであるかもわかる。

だけど、若さを失っても、鍛錬を続けて自分の道を歩き続ける素敵な年配の方たちがおられるから、私もそのようになりたい。

いつまでも理想を求めて歩き続ける。

 

音楽は時間の芸術だ。

生きている限り、鳴りやむことはない。

場所を変え、相手を変えながら、私はずっと、誰かと奏で続けている。