Offering

自分が何を好きなのか、よくわかっていなかった。

でも自分の好きなものに自覚的になると、とても快適になった。

私の場合多分、自分の好きなものを欲することを抑制しようという意識が強すぎた。

少しずつ時間をかけてその抑制を解いていって、今ようやく、自分に素直になれるようになった。

 

私の好みは、マジョリティではない。

年を経る度に、どんどんマイノリティになっていくように感じている。

Mさん、家にテレビないって本当?と、今日も職員さんに聞かれた。

そうです、雑音が嫌いなんですよと私は答えていた。

少なくとも私の職場の人たち、利用者さんたちにとっては、テレビはなくてはならないものらしくて、

車でも家の中でも、テレビがついているというのが普通の状態のようだ。

そういう人たちがどういう層のマジョリティなのかは知らないが、病院の待合室などで大音量でテレビがついていても苦情を言う人がいないところをみると、

つけっぱなしのテレビを苦痛と感じる人間はおそらく少数派なのだろう。

 

私は音に敏感なようだ。

そのことは、ずっと昔からそうだったはずなんだけど、私は4月のかささぎ座でのサイコドラマでセラピーを受けて、初めて自覚的になった。

そしてこの音楽が好きだという私の特徴を活かす術を知った。

 

 

 

疲れると、私は遊びを求める。

今職場に体調不良者が続出していて、本当にけっこう忙しい。

幸い私は大変元気なのだけれど、なんとかして遊びでバランスを取らないとまいってしまうと思った。

それで先日、ジャズバーに行った。

我が町には数少ないライブハウスだ。

大学時代のジャズサークルの友だちがお世話になっていたところ。

 

扉を開けると、やはりそこは別世界だった。

ジャズを愛する人々、大学生からおじいさんまで、音楽の前ではみなが平等で仲間で、どこまでも美しく楽しいものを追求する。

純粋なお客は私ひとり。

続々集まってくる顔なじみの人々は、みんなが一緒に音楽をやっている仲間だった。

仕事帰りに、楽器を持って、別の顔になって扉を開ける。

入れ替わり立ち替わり、ステージに出る。

小さなライブハウスだから、客席もステージも、本当にひとつになる。

 

一曲一曲、終わらないでもっと続いて欲しいと思ってしまう。

ジャズは何度も何度も繰り返すから好きだ。

ノッてきたら、目配せし合いながら、同じフレーズを新たなアドリブで繰り返し、ソロをつないでいく。

そうやって何度も何度もひとつのフレーズを愛でる。

でもこのセッションはこの一回きりしかなくて。

私はようやく素直になって、様々な抑制を解いて、音楽に浸れるようになった。

薄給の身にとってはなかなかの贅沢だけれど、でもこうやって私は別世界への扉を手に入れた。

 

お店の人は、私の父のバンドをよくご存知だった。

まさかこんな離れた町で、あの懐かしい神戸の町の話ができるとは思っていなかったから

これも大変に強いご縁だなと思った。

父のバンドは、日本では珍しいジャグバンドで、有名なジャズの曲をカバーしていたりもする。

父のバンドも、元はこういう小さなライブハウスのジャズ喫茶で、マスターと常連の仲間たちで結成したのだった。

どうして私の冒険は、いつもこんな風にとんでもない巡り合わせになるのだろう。

ひとりきりで新たな居場所を開拓しようと思ったら、そこは懐かしい人々と繋がっていたのだった。

 

次は楽器持ってきてくださいね、と言われてしまった。

楽器(トランペット)はないんですよ。ピアノも大して弾けないし。…でも、歌なら歌えるかも。

思わず口走ってしまった。

いいですね〜と数人が答えてくれた。

ただ客席に座っているだけじゃ、つまらない。

そう思っていたところだったから、とても嬉しかった。

 

父は「音楽をやってる人間に悪い奴はおらん」と言う。

父はこの年になっても本当に純粋な人だなと思い、そんな父を私は好きだなと思っていたが、そんなわけはないやろと思っていた。

でも、もしかしたらって思いそうになる。

 

 

美しい花も、芳しい香りも、心地良い音楽も、すべて、仏さまに捧げるものだ。

あの空間で、音楽に身を委ねてみながひとつになった時、

それはあの空間でリンポチェと共にお唱えをしてみながひとつになった時と、とても似ていると私は感じる。

全ての芸術の始まりは、神さまや仏さまに捧げるものだった。

人が自分の快楽のために楽しむものではないのだろう、本来は。

きっと人間は、より高次の存在がなければ、人間らしく生きていけない生き物なのだろう。

私たちは、世界に組み込まれて生かされているから。

 

そう思って花を愛で、装うことを喜び、部屋や職場を整えることを嬉しく感じられるようになった。

ここでお役目があることを嬉しく思う。

そう思って過ごしていると、利用者さんたちの笑顔がとても尊いものに感じられてくる。

 

 

 

YちゃんとKくんに優しく接して、遊んであげていたSちゃん。

「小さい子たちの面倒を見てくれて、優しいお姉さんをしてくれてありがとう。」

って、Sちゃんに伝えたら、ぱあっと明るい笑顔になって、どういたしましてって言って、タッチしてくれた。

その後お母さんと一緒にエレベーターに乗って帰るとき、見えなくなるまで私に手を振ってくれた。

Sちゃん、私たち、やっと仲間になれたね。

そう思いながら、私もSちゃんが見えなくなるまで、大きく手を振り続けた。

 

色々な問題行動を起こすSちゃん。

でも、とってもいい子で、粘り強くて、可愛くて、大好きだ。

人見知りが強くて、緊張して固まってしまうYちゃんに大して、小さい子が大好きなSちゃんはあきらめずに粘り強く関わり続けてくれるから、

大人以外と遊ぶことの苦手なYちゃんも、Sちゃんとは一緒に遊ぶことができる。

Sちゃんが遊んでくれることが、どれほどYちゃんにとって大きな意味を持つか、はかりしれない。

Sちゃんに本当に感謝をしている。

そして私は、このふたりの巡り合わせに、もう偶然を感じることはできない。きっと仏さまが引き合わせてくださったのだ。

世の中はきっとそうやって、あるべきところに収まっていくのだ。

そのために私が何らかのお手伝いをしていけたらいいなと思う。

 

 

 

警戒心の強い中高生たちとも、少しずつお近づきになってきた。

外国人のお母さんたちとも、少しずつお近づきになってきた。

他愛のない一言の会話で、相手の素敵な笑顔を見れるようになった。

本当に本当に不思議なのだけれど、私の世界は全く変わってしまった。

大変な、予想外のことばかり起こっている。

でも、みんなたくましく生きていて、私はみんなの中に、素敵なところを見出せるようになった。

今まで、それらを見出したところで何になるわけでもないと思い込んでいたけれど、その認識が間違っていたのだと気づいた。

人々の中に美しさを見出せたら、それらを私は仏さまに捧げることができる。

俗世の問題解決とは別の次元で、もしかしたらより大きな意味を持っているんだって、気づいた。