わからなさ

今日は夜ご飯までは子どもたちとまったり過ごし、

夜は久しぶりに資格試験の勉強に取り組んだ。

相変わらずよくわからないが、何度も繰り返して勉強していたらそのうち覚えられるだろう。

 

次男は力強く大きな字で、漢字の練習をしていた。

長男は社会や算数のワークをしていた。

私は一緒にこたつに入って、オンライン勉強会のレジュメを作っていた。

子どもたちは偉いなあと思う。

はじめは全然わからなかったりできなかったりする勉強を、毎日毎日続けて、そしてちゃんと身につけてしまうのだから。

 

私も子どもたちと同じように、知らないことを一つ一つ学んでいったのだけど、

私はわからない状態というのがとても嫌なようだ。

仕方がない。

わからない状態から始まるという自然の真理も、わからない状態が嫌だという私的感覚も、仕方がない。

それは仕方がないことなのだから、緊張せずに落ち込まずに、取り組み続けるしかない。

ここでいう「わからない」というのは、「状況を知らない」という意味に近いかもしれない。

知識がない、見取り図が描けない、そういうわからなさである。

勉強した末に求められていることは、正確に理解して覚えるということだ。

 

一方で、オンライン勉強会の準備の勉強は、全然苦じゃなくてとても楽しい。

それは、内容は難しくても、アドラー心理学に関わる私の好きなことだからだ。

覚えることは求められていなくて、より深い理解を得ること、よりよく実践できるようになることが目的だ。

特にベイトソンの勉強は、わからないことだらけだが、わからなさを理解していく過程も非常に面白く思う。

ここでいう「わからなさ」は、ベイトソンの思考、思想、論理、デザイン、構造、等を指している。

どれだけ勉強しても、きっと私がベイトソンを本当にわかる日は来ないだろう。

それだけわからないことがあるということ、それに向き合い続けていけるということを、幸せに思う。

 

 

すべて野田先生に導かれたことだ。

まだときどき、野田先生のことを思って落ち込むことがある。

 

野田先生にいただいた料理の本がある。

フランス料理、インド料理、中華料理など。美しい写真もたくさん。

私は適当な料理しか作らないので全然開いていなかったのだが、

これらの本が、最近次男の愛読書になっている。

読んでと言われるので、昨日と今日はフランス料理の本を読んだ。

見ず知らずの香草類とかスパイスとか、ちょっとずつ馴染みになってきた。

野田先生に作ってもらったお料理とかお菓子とか、

次男もよく覚えていて「あれはおいしかったなあ〜」とにこにこ思い出している。

 

子どもたちが帰ってひとりになった部屋で、

やっぱり私はまだこれらの料理の本を開く気にはなれないでいる。

すべて仕方がないことだとわかっているのに、何を目的にしているのだろうか。

私には寂しさが意図することがわからない。でも確かにここにある。