クラスとコンテクスト

昨日は野田先生の論文のオンライン勉強会だった。


今日はフロイト派の講義のレポートを提出した!あー疲れた!


学ぶことは好きだ。

でも、私は自分の価値観と相容れない思想に基づくものを学ぶのは苦痛だ。


様々な思想があって当然だし、私の拠り所にする思想が他のものより正しいかどうかはわからない。

ただ、私にとっては私の思想が大切なものであり、他の人にとっては他の思想が大切だという違いがある。

ベイトソン流に言うと、

クラス(ひとつの論理階型)の中に、いくつかの思想がメンバーとして並んでいる、ということだ。

私たちはその複数の思想から、自分の好むものを選択する自由がある。

それが多様な価値観を認めるということの意味であり、

おそらく理論的価値相対主義という立場なのだと思う。


私が今言語化しなんとか理解できているのはここまでだ。

この論理階型の上にも論理階型があって、それは実践的価値相対主義に関係するものである…はず。


詳しくは野田先生の論文『価値相対主義の系譜』に書かれている。

論文は何度も何度も読み返し、音読し、仲間と共に学び合うものだと思う。

そうしているうちに、1人で読んでも全然わからなかった論文が、

学び初めは仲間ともこれってどういう意味だろう?って言い合っていた論文が、

段々と私の思考と一体化してくる。

あああの論文のあの部分は、こういうことを言ってるんだ!と、

他の用事をしているときに急に腑に落ちたりする。


論文と並行してウィーンの歴史も学び合っているところだが、

やっとアドラーが生まれた頃までやってきた。

思想は、歴史抜きにとらえることができないと私は思う。

その思想を生んだ人の歴史と、その人が生まれ育った地域、時代を、

空間的・時間的コンテクストを読まなければ、思想を正しいコンテクストに置いてとらえられないと思う。

大変に面倒で時間のかかることではあるけれど、

ある思想を理解するなど、一生かけても到達できないことだろうと私は思っている。


私はアドラー心理学の思想に救われた。

だから、同じようにこれに価値を見いだす人々と学び合いたい。

そして、この思想で世の中がより良くなるように、自分を役立てたいと願っている。