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今日はベイトソンのオンライン勉強会だった。

 

相変わらず共産主義社会主義についての勉強もしている。

本は遅々として進まない。

岩田温先生にはお世話になっている。

現在の共産主義について、動画でかなりわかりやすく、そして面白く説明してもらえる。

私たちの生きる社会においても、確かに人ごとでないと感じる。

 

 

学んだことを言語化してみることはとても役に立つ。

アドラー心理学の学習会では、パセージでもカウンセリングでも、前回はどんなことを学びましたか?で始まり、今日はどんなことを学びましたか?で終わる。

これはアドラーの弟子であったドライカースの方法だそうだ。

始めと終わりのコンテクストマーカーになるという意味でもとても良い作用効果があると思うが、

学習の定着や、互いの学びのシェアリングや、学んだことの言語化という面でも大変良い効果があると思う。

 

グループで学び合う良さは、質問したら、誰かが答えてくれることだ。

たとえ理解が浅い者同士であっても、質問に対する回答が出なくても、

質問について話し合うことで、何がわからないのか、引っかかっていることは何なのか、次どういうことを学べば良さそうか、考えることができる。

 

複雑なものは複雑なまま、わからないものはわからないまま、

言語化してぶら下げておいて、眺めながら学びを進めていく。

これも、アドラー心理学を学ぶときの学び方である。

アドラー心理学は一般常識と異なる考え方をする部分があるので、

さしあたってそういう風に考えるのだと、括弧に入れて捉えておいて、

次に進むんだということを野田先生から勧められた。

 

ベイトソンアドラー心理学以上に、一般常識と異なる考え方をする。

例として出されるものがいちいち理解の難しいものだったり馴染みがなかったりする上に、

ベイトソンは、これはこうだと言われる、これはこうだと言われる→しかし違う、違う、違う、それも違う、あれも違う→ではこうなのだろうか、こうなのだろうか→いや、違う、ここは違う、そこは違う→ところでこれはこうなのだろうか→…

と延々と謎が謎をよびながら進んでいく。

今現在理解したところは、メッセージはコンテクストによって意味が変わる、といういことだ。

そしてコンテクストは、相手と共有できなければメッセージが正確に理解されない、ということだ。

今日は数と量とパターンについて学んだ。

デジタル(数)とアナログ(量)の世界の論理階型を、ジグザグに登っていく。

 

アドラー心理学の学び方を知っていてよかった。

複雑なまま、わからないまま、迷いながら混乱しながら、仲間と進んでいくことが楽しくなってきた。

それでもずっとぶら下げながら考え続けて歩みを止めなければ、

振り返ってみると、以前よりはベイトソンに親しめるようになってきたことに気づく。

何事も、諦めずに続けていこうと思う。