自分の中に

今日は野田先生の論文のオンライン勉強会。

今日もアドラーの論文(野田先生の訳)「共産主義と心理学」を読んだ。


ウィーンの歴史は一旦休憩で、ロシア革命について調べてみようと思った。
アドラーの生きていたときは、激動の時代だったんだと今更ながら驚いている。
ウィーン万博、ロシア革命第一次世界大戦ハプスブルク帝国の崩壊、ナチスの台頭。
どれも世界史の教科書の見出しになるようなことでしょう。
高校の世界史はまともに授業をとっていなかったので私は無知で、
その分今、とても新鮮に、時間的空間的思想的コンテクストを結び合わせながら学んでいる。


ロシア革命と私とがどのようにつながるのかというと、
アドラーはあらゆる暴力や支配を退けて子どもを教育すべきと言ったのだ。
ロシア革命第一次世界大戦の悲惨さを肌で感じ、暴力でもって人間を客体として支配する世界のただ中にいて、
親が子どもに生活に必要なことを教えるその場面での暴力的な支配についても、
体制への反対勢力が暴力を使って抵抗することについてと同じように、
暴力と権力への陶酔を一切やめて、人間の尊厳を守り、自ら学びを選びとっていけるよう教育すべきだとアドラーは言った。
そのように親が子どもを教育することで、はじめて共同体感覚を育成することができると言った。


この論文は、はじめてアドラーが共同体感覚について述べたものらしい。
そのような環境にいながら、共同体感覚を提唱できたことがすごいことだと私は思う。
どうやら私は、かなり絶望しやすいライフスタイルを持っているようだ。
絶望しやすいが生き続けていくために、小さな小さな幸せを見出し、希望にすることもできるので、
そうやって私はバランスをとっているのだろう。



パセージでは、意見は意見とわかるように、事実言葉ではなく意見言葉を使うことをおすすめする。
また、命令口調ではなくてお願い口調を使うことをおすすめする。
それは、子どもが親の意見を採用しないという選択をしやすいように、
親のしてほしいことを断るという選択をしやすいように、という工夫の一環である。
これは、親の支配性を弱めることが目的なのだなと、今日この論文を読んでいて気づいた。


支配的な親である私にとって、ロシア革命は他人事ではない。
アドラーが目指した社会を実現できるかどうかは、
私が私の子どもたちへの支配性を手放せるかどうかにかかっている。