今日はオンライン事例検討会でした。
私の事例について仲間たちの意見をお聞きすることができました。
エピソードを読むこと、味わうことが、場数を踏むことで少しずつわかってきたように思います。
それは、物語を読むということなのだと思います。
私がそこそこうまくできたエピソード分析の事例というのは、
エピソードの背景がよく見えるほどに、私が多くの情報を得ていた場合だったのではないかと思い至りました。
治療的共同体の中のメンバーとして、生活圏を共にして、お友だちづきあいもあって、子どもたちともご一緒することもあって、
そういう風に、私とクライアントさんは幾重にも重なる物語を持っている場合があります。
相手役についても私はよく知っていたりもするわけです。
だからそういう方のエピソードをお聴きすると、ゲッシングの精度がひじょうに高くなるのでしょう。
私は今の自分の恵まれた環境のおかげで、カウンセリングを順調に進められているのかもしれない、という可能性に気づきました。
私の強みは、クライアントさんとの元々のよい関係と、クライアントさんにまつわる基本的な情報量の多さです。
でも、それはまったく初めましてのクライアントさん相手にはないものです。
クライアントさんの語られる限られた情報から、エピソードを読むことをもっともっとできるようにならなければと思いました。
連続した事象から、非連続に抽出したものを、私たちは使います。
冗長性から、パターンを導きだします。
連続の論理階型の上に、非連続の論理階型があります。
このふたつの論理階型を混同してはいけないのです。
これはベイトソンから学んだことです。
私は連続したクライアントさんその人を目の前にするのです。
クライアントさんの言葉は、非連続に抽出したものです。
私は言葉を使わなければカウンセリングすることができませんが、
言葉だけでカウンセリングができるわけでもない、と思うのです。
ノンバーバルなコミュニケーション、
身体の動き、表情、雰囲気、空気、目の色、
首をかしげる角度、頰の緩ませ方、指先の動き、頭をかいたり、
視線の動かし方、向き、速さ、急に止める、はっと気づく、
声のトーン、大きさ、テンポ、言葉につまったり、笑ったり、息を吸ったり、
ありとあらゆる連続したその人の空間的コンテクストが、
その向こうにつながっているその人の時間的コンテクストが、
それらすべての全体がその人「個人」なんだなあと、やっと感じました。
言葉が通じるとき、きっと私たちはもっと他のたくさんのものでも、同時に通じているのだろうと思います。
そうでなければ、誰かの言葉で心を動かされることなどないでしょう。
世の中には、オンラインでカウンセリングができるという人たちもいるようです。
私はそんなことはできないと思います。
少なくとも、そのカウンセリングは、私の理想とするコミュニケーションではありません。
私は、私がクライアントさんと、連続したクライアントさん全体と向き合い、
同時にクライアントさんが私と、連続した私全体と向き合い、
非連続の言葉を通して、連続した目線、身体の動き、声を通して、
クライアントさんの物語を聴きたいです。
そして私はクライアントさんに問いかけながら、
クライアントさんが考え、答えながら、
私もまた考え、問いかけながら、
その相互作用でもって、異なる論理階型を登ったり降りたりしながら、
ふたりで物語を読み、同時にふたりで物語を作っていくのです。