ひとりごと

私の周りを見渡してみる。

私だけの好きで集めた小さな部屋。

私だけの好きで纏った香り。

私だけの好きで包む音楽と光。

人間関係の発生しないところで、私は自由に身体と心をくつろがせる。

生温い雨がぼたぼたと降っている。

窓を閉める。

 

あの大変だった浴室清掃の日から、セルフケアについて考えている。

清潔で快適なところで身体を休めること。

身体を清潔にしたり、栄養のある美味しいものを食べたり、疲れを癒すこと。

怪我や病気の時は、すぐに病院に行ったり適切な対処をすること。

その他にも多分、好きな物に触れたり、花や緑を愛でたり、美しい絵や景色を見たり音楽を聴いたりすることも。

それから気心のしれた人たちと会って話したりお茶を飲んだりすることも。

広い意味でセルフケアになるのだと思う。

限界状態にいる人たちは、そういう心の静けさを創り出すような行動をほとんどしないように思える。

 

一部、ネイルサロンや美容院に頻繁に行くのを好む人たちもいる。

生活保護費の使い方としてどうなんだろうかと私は気になっていたけれど、

女性にとってそれはとっても大事だもの、いいことよ、と女子力高い職員さんたちに言われた。

もちろん悪いとまでは私も言えないけれど。

確かに、自分の身体の中で一番目に留まる爪先が綺麗だったら、自分自身が綺麗であるように思える。

それはとても素敵なことだと思える。

それは一種のセルフケアなのだろう。

 

私自身は、仕事で小さい子のお世話や掃除があるから、職場の規定でマニキュアなんてしてはいけない身分なんだけどね。

スカートだって履いて職場に行ってはいけない。

反動で、プライベートではフェミ二ティ(女性性)を満喫しようとしている気がする。

私の根深かったマスキュリンプロテスト(男性性抗議)が、ここに来て完治したようだ。

 

 

自分自身や自分の身の周りを美しく整え、くつろげること。

そういうセルフケアができることは、健康なのだと思う。

部屋の乱れは心の乱れという言葉が昔から嫌いで、今も嫌いなんだけど、一理あるように思えてきた。

たくさんの居室に入らせてもらって、やはり心の健康度合いは部屋に現れると思えるようになったから。

 

病気の時も、熱出てないから大丈夫って言って病院に行きたがらなかったり、

頭が痛いのにずっと動画を見続けていたりゲームをし続けていたり、

面倒なのか何なのか、「ゆっくり休む」ということが通じないなと感じることが多い。

先日高校生の女の子の通院に同行した際、私と話をしながらも、しきりにスマホをいじっていた。

お母さんたちにしても、テレビを点けっぱなしにしていないと落ち着かないって言う人たちがいる。

常に何かが鳴っていて、常に刺激を受け続けていて、心が休まる時がないように思えてしまう。

ここにいるような極限状態の人たちばかりではなくて、現代の人たちってそうなんだろうか?

 

ちなみにひとりでいても、私は音楽を流していない時間の方が長い。

私の子どもたちが、勉強する気ない〜と言いながら、本やマンガを読んだり工作したり絵を描いたりレゴしたりしているのを、

私はごく普通のこととしてきたけれど、それはもしかして希少なことなんだろうか?

そうではないと、思いたい。

コーラスサークルも、自助グループも、普通のお母さんたちが自分の人生を楽しみながら、子どもたちのことを思いやりながら、仲間同士で話し合い、協力し合う場だ。

そんな普通のお母さんたちが、世の中にはたくさんいるのだから、まだ絶望するには早すぎる。多分。

でも、素敵すぎるお母さんたちと、大変すぎるお母さんたちと、両極端にしか私は所属していないもんだから、

どちらに戻っても、反対側の人々のことを思ってびっくりし続けている。

そして自分自身が、もっと特殊な立場にいることに、あらためて孤独を感じたりもしている。

おかげで私は、誰も裁かずにいられているように思う。

私は、誰をも批判できるような身分ではないから。

 

 

この施設にいるみんなはきっと、孤独に耐えられないんだろう。

先の見えない仮住まい。不安でいっぱいなのは、それはそうだろう。

でも、みんな、子どもたちと一緒に居られるじゃないって、時々思う。

でも、誰もが子どもと居られることを幸せと感じられるわけでもないし、誰もが母親であることに幸せを見い出せるわけでもないようだ。

そして子どもたちも、不安の中で、自信なく生きている。

 

最近この仕事に意味を見出せなくなっていたのは、

次々巻き起こる問題に、我々職員が介入すればするほど、

当事者の問題解決しようという意識が失せていって、より問題が深刻化するということを見続けているからだと思う。

今、言語化してみてわかった。

私がしたいことは、彼らの問題解決ではなくて、彼らが自分自身の問題を解決しようと立ち向かえるように勇気づけることだ。

それが、私がすべきことだ、きっと。

それがこの職場でどのようにできるかどうかは、難しいところではあるけれど。

 

 

 

ある晩、居室に介入した。

子どもの泣き声と母の怒る声があまりに大きかったから。

大きいだけでなくて、私も震え上がるほどの言葉づかいだったから。

目の前に私がいても、母は子どもに怒っていた。

「お母さん、落ち着きましょう。大きな声出したら、大きな声で泣きますよ。」

私は床に座って、仁王立ちの母を見上げた。

ちょうど子どもの目線だ。

どれほど怖いかと思った。

でも子どもの方はそんな母に慣れすぎていて、母が怒鳴るのを止めると、すぐにケロっとして走り回ったり、母に飛びついたりする。

そして母はまた怒る。

私が子どもを膝の上に座らせている間に、母は子どもが汚してしまった床や服を片付けられて、

疲れ果てた様子で「もう大丈夫です。ありがとうございました。」と言われたので、

「大きな声を出すのは、子どもにとっても、お母さんの身体にとっても、よくないですよ。

大きな声を出してしまいそうになったら、いつでも職員を呼んでくださいね。」と言って退室した。

母は、不機嫌な顔でそっぽを向かれた。

 

その次の日、上司のところへその母は、

「昨晩介入してきた職員が、まるで私が悪い母親であるかのように言ってきたので傷ついた。

私は自分の親のように子どもを叩いたりしていない。

悪いことをした子どもを叱っていただけだ。

それがいけないのなら、私はどうすればいいのかわからない。」

と、私に対するクレームを言いに来られた。

上司は、詳細に書いていた私の日報を読まれていたので、

介入した職員の意図は、子どもに対する対応として、大きな声や不適切な言葉づかいを改善するようにということだったと思いますよ。と、丁寧に話をされた。

でも子どもに対する適切な言葉づかいや対応がわからないと母が言われたので、

ではペアレントレーニングを行なっていきましょう、という話に進んでいった。

その後ミーティングで、

今後もこの家庭については必要があれば躊躇せずに介入し、詳細に日報に残して情報共有していく。

同時に母親のペアレントレーニングをどう進めていくかについて、外部機関と連携して検討していく。

という方針が決まった。

 

実際に、母たちに対してその対応はやめた方がいいですよ、と私が介入したのは数回目だが、そういう時、毎度のように母たちからクレームが来る。

私の言い方が悪いのか…。(かなり気をつけて工夫しているつもりだけど…)

毎度、落ち込む。

でも今回は、本当に必要な介入だったと判断したことだったため、前回までの落ち込みとは違って、母の不況を買うのは仕方がないことだなと思えた。

 

しかし、この件についてミーティングの時に、ある先輩職員さんが

「母の気を悪くするような対応をしてしまったことではあるので、みんな気をつけながら介入していきましょう。」と言われたことで、私は撃沈した。

確かに一部の職員さんたち(特に若いベテラン職員さんたち)は、母や子どもたちの気を悪くしないようにということを最優先に対応をしている様子だ。

話し合いを重ねても、結局相手の望み通りの結論になるので、母たちは満足する。

だからそういう職員さんたちに対してクレームが入ることはない。

指導という役割を持っており、母たちもそれを認めている上司やおばさま職員さんたちが、これはよくないからこのようにしてくださいね、と介入する時、

母たちは不満そうにされても、傷ついたなどとクレームが入ることはない。

私は新参者であり、しかも普段は指導的なことを言わないくせに、痛いところを抑えにくるので、「傷ついた」とクレームが入る。

私の対応が不適切だったというクレームではない。「言っていることはわかるけど、あんな言い方はないんじゃないか」という類のクレームの付け方である。

…これはもう、私のカルマなのではないか?いわゆるイチャモンでしょ?

 

とは言え、私の対応にまずさがあるのであれば、改善しなければならない。

上司のところへ「介入したその後のことについて日報を読んでびっくりしました。私の対応にまずいところがあったら教えてください。」と聞きに行った。

上司は、私の対応については特に気になったところはなくって、この母にどうやって指導していくか困っていたところだったから、良いきっかけになって助かりましたよと言ってくださった。

これまで上司が同じような場面で介入することが度々あったが、そういう現場では、落ち着いて今後について話し合うことができなかったから、

Mさんには悪いけれど、こういう形で母から話を振ってきてくれて、すごくラッキーだった、と。

全体として私の動きが新しいステップへのきっかけになったのであれば良かったですと答えた。

確かにいつも、私へのクレームをきっかけに、母たちへもう一歩踏み込んだ指導を上司がされている。

何回「傷ついた」クレームを受けるかわからないけれど、それで結果、物事が良いように進んでいくのであれば、今後も躊躇せずに介入していきます。と伝えた。

もちろん最大限気をつけますけどね!!

 

…私はけっこう、貢献しているのではないだろうか。

優しいお兄さんお姉さん職員さんたちにとっては、仕事のできない教えがいのある後輩職員として存在できているし。

おばさま職員さんたちにとっては、やる気はあるけど不十分な教えがいのある後輩職員として存在できているし。

上司から、全体として先に進むきっかけを与える存在として思ってもらえている。

仕事はひとりでするものではない。チームワークだ。

私は今、トランペッターではないようだ。

それでいいんだろう。

トランペッターでなくて不本意なのは、私だけだ。

私はみんなの中に埋没している。個性を失くして。

 

その埋没することの良さを、コーラスで歌っていて実感する。

私の声がみんなの声に溶けていく。

際立っていた私の個性が、消えていく。

だからと言って私が消えるわけでもなくて、私がいなくても同じというわけでもなくて、

私がみんなに溶けることによって、全体として良い響きが生まれるのだ。

 

ねえ今私は初めて、協力ということを実感しているのではないだろうか。

ひとりで好き勝手やりたい目立ちたがりの私にとって、おそらく協力することは不本意なのだ。

誰かの世話をしたくもないし、誰かの世話にもなりたくない。

私は頑固な祖父にとても似ていて、協力することが下手なのだ。

そんな私が、こんなところで働いている。

不本意ながらも、かなり良いように自分を役立てているんじゃないだろうか。

 

 

傘踊りの方は、うちの施設1年目の、でもうちの会社では職歴の長い職員さんが一緒に踊って練習に付き合ってくださっている。

練習の度と言っていいぐらい、いろんな職員さんたちが覗きに来てくれる。

爪先の方向だとか腕の伸ばし方だとか、さすがみなさん鋭くチェックしてくださる。

お兄さん職員さんなんかは、一緒に踊ってくれた 笑

所長がちょっと貸してと言われ、見せてくださったら、傘さばきが大変美しかった。

来月からはいよいよ会社全体での練習だ。

車で30分程度の別の施設まで出かけて、1時間半のお稽古を週に2回!

でももう、嫌だとかいう気持ちは全くなくなっていて、美しく踊れるようになりたいという気持ちしかない。

全体練習が始まっても、勤務が合えば施設内で練習しましょうと言ってもらっているし、

みんなにとってまさかの楽しい時間も提供できているようだ。

 

雨は止んだ。

窓を開けた。

カエルの鳴き声がよく聞こえる。

結局ね、独り言だ。

こうやって書くことで、私は自分の孤独を癒し、自分の脳内を整理し、感情を整えている。

私は自分を制御し、役立たせることが好きだ。

それはひとりきりではできないことで。

でも、ひとりきりでいる時間と空間を大切にして充実させていなければ、私は人々の中で働く元気は保てない。

大変な人々を、私が救えるわけもないし、私が変えられるわけもない。

彼女たちと協力して生きるということを、私も一生懸命取り組んでいこう。

私は私の人生を一生懸命生きよう。それだけが、世界を変えていく方法だ。