母であるかのような

私の職場の話をすると、ある人が、

「個々の家庭でいるより、そうやって集まって暮らしていることの良さってありますね。」

と言ってくださった。

確かに、子どもたちみんなが、一緒に遊んだり勉強したりできるような環境を整えている。

様々な行事やワークショップなどの機会を設けたり、日常的にもみんなが遊べるように工夫したりしている。

子どもたちがこの暮らしの中で、社会性を身につけていくことをみんなが願っている。

そして多分、子どもたちはこういう環境にいるからこそ、成長できることがあるんだと思う。

 

この内部に染まっていない人と繋がっておくことが、私の正気を保たせる。

 

ここの生活は、長屋暮らしのようなものだ。良くも悪くも。

でもどちらかというと、施設管理側からすると、利用者同士の関係は危険視している。

利用者同士で職員や施設に対する不満を言い合って、結託されると困るからだ。

所詮は牢獄のようなものだ。私はそう思っている。

でも、今まで人々とあたたかい関係を築けなかった人たちにとって、甘い職員たちと出会えたことは、確かに安らげることでもあると思う。

世の中で生きていく元気を持てるかもしれないと思う。

 

…私は、甘やかすことは良いとは思えない。

だから、この甘さについて考え出すと絶望してしまいそうになるから、正気に返りそうな自分をねじ伏せる、変なエネルギーが要ったりする。

かといって、この甘さをそういうもんだと許容して、良い職員のふりをして考えようとしても、利用者さんたちのこと、過去と現在と未来とを考えると、結局、絶望してしまいそうになる。

どちらにしても私は、ここを良いところだとは思いたくない。

 

かと言って、ここで働くことを嫌だとは思わない。

社会勉強をさせてもらっているから。事例の宝庫だから。

利用者さんたちとお話しすること、子どもたちと過ごすことは、とても楽しいから。

それは、本当にそうなのだ。

寂しがりの私の心と、寂しいこの人々の心が、共鳴しているのかもしれない。

ほんの一言二言の会話であっても、それが相手にとってとても大切なものであることを感じられるから、

私は丁寧に向き合い続けることができる。

家族でもないのに、友だちでもないのに、ここまで私が相手にとって近しい存在になれるなんて、なかなかないことである。

そういう意味で、カウンセリングのクライアントさんとの関係に、一番近いのかもしれない。

私たちの間に、臨床的枠組みができているかどうかはわからないけれど。

 

 

 

 

書きにくいことばかりだ。

背景を話すことはできない。

でも、書ける範囲で書いてみる。

 

2歳のYちゃん。

初めの頃は、私の顔を見ただけで泣いて、お母さんから離れなかったけれど、

すべり台で一緒に遊んだ日から、少しずつ少しずつ私たちは近づいて、

今は、私を見つけると走って来てくれて、タッチしたり、ぎゅーってしたりしてくれるようになった。

そのことが私にとってどれほどの意味をもち、Yちゃんにとってどれほどの大きな意味をもつのか、

私はその理由をここに書くことはできないけれど、

これはとてもとても大きなことなのだ。

彼女の世界は、今、安心して所属できる世界に、作り変えられていっている。

その変化を職員全員が目の当たりにしている。

私たちみんなでYちゃんの人生の物語を良いものに変えていっていると思う。

 

今、Yちゃんは事情があって、この1週間近く、生活のほとんどを職員と過ごしている。

保育園送迎し、お風呂に入れて、ご飯を作って、ご飯を食べさせて、遊ぶ。

寝るときは、お母さんのところに嬉しそうに帰っていく。

お母さんは優しく、「おかえり、Yちゃん」と抱き寄せる。

「バイバイ、タッチ!」って、小さな手を重ねてくれる。

良かった、って、お部屋へ送り届けた後はいつも思う。

 

お風呂が大嫌いなYちゃんは、

お風呂に入るまでギャン泣き、お風呂場に着いてからもギャン泣き、髪にお湯をかけてもギャン泣き、湯船に入れてもギャン泣き、上がってから服を着るのもギャン泣き、

1週間前はそんな状態だった。

Yちゃんのお風呂担当は、もっともヘビーな部類の業務だった。

しかし!4日前はぐずぐず泣く程度におさまっていて、

今日はにこにことお風呂場まで行き、お風呂場のおもちゃで遊ぼうとし始めたところですんなりと服を脱いでくれて、髪を洗うときは泣いたけど、あとはずっとご機嫌で過ごすことができるようになっていた。

この変化は、毎日の職員さんたちの丁寧な、あたたかい関わりによるものに違いない。

なだめすかしたり、甘やかしたり、みんながどんな手を尽くしたかは知らないが、

でもYちゃんにとって、お風呂が楽しいところに変わったことは、本当にものすごいことだと思う。

 

向かい合って、私が歌って、Yちゃんが振り付けをしたり、口ずさんだり、拍手したりする。

何回も同じ歌を繰り返し促され、何回も歌うと、何回も拍手をしてくれる。

私の膝の上に座るYちゃんをなぜながら、絵本を読んだり、おままごとで遊んだりする。

なんて可愛いんだろうと思う。

あなたが笑ってくれることが、私は本当に嬉しい。

どうか、そうやって笑っていてほしい。

 

この先のことを考えまいとしている私がいる。

これまでのことを考えまいとしている私がいる。

そのことを考えても、考えなくても、私が今すべきことは何も変わりないんだからと、言い聞かせている。

ここはただの通過点。

私がどうしたいのかなんて、考えてはいけない場所。

私はただ、依頼されたことを一生懸命に取り組むだけ。

 

多分、Yちゃんは、私にとって大きな存在なんだと思う。

他の子どもたちに対するのとは、私の感情の動き方が違う。

そうだね、もしかすると、いつかは私の子どもでいてくれたのかもしれないね。

…不思議だ。

そう思うと、このYちゃんに対する、執着にも似た私の感情が、心の中の居心地の良いところにおさまった気がした。

 

Yちゃんの周りで遊ぶ他の子どもたちが、Yちゃんと私との関わりを通して、たくさん成長していくことも嬉しい。

YちゃんもYちゃんのお母さんも、ひとりではないね。

ここに私たち職員がいて、子どもたちがいて、他のお母さんたちもいて、

窮屈でもあり暑苦しくもあるこの長屋のような暮らしの中で、

この世の中に組み込まれて、生きている。

 

何が良くて何が悪いのか、本当に、わからなくなる。

私は瞬間の美しさだけを拾い集めようとしているようだ。

それは、現実からの逃げなのだろうか。

わからなくなる。

もっとYちゃんと過ごす日々が続いたらなって思う自分がいるけれど

それを口にしてはいけないことはわかっている。