役立たずな私で役に立つ

自分が良かれと思って、考えて工夫して行動したことが、期待した結果に結びつかない。

そんなことが重なって、落ち込んでいた。

期待だって、できるだけ小さな小さなことに留めていたけれど。

でも、自分が何をしようと、人に良い影響なんて与えられないもんなんだ、って、諦めようと思えた。

今日のアドラーの著作のオンライン抄読会で、そう思えた。

だってアドラーでさえ、治療できなかった子どもたち大人たちがいたんだから。

私は、私に一体何ができると思っていたんだろうか。

 

変化が起きている。

先日一緒にコンパスを使った妖精くんとNくんは、新学期が始まってからのこの1週間、毎日朝から登校できた。

これはものすごいことで、私が知っているこの1年間の間、こんなことは一度もなかった。

Nくんは「だって休むと余計にわかんなくなるから、授業受けないとな。」と話しているらしい。

妖精くんは学校の目標に、勉強面では「勉強の遅れを取り戻して、受験勉強に励む」、生活面では「生活リズムを整える」と書いていたらしい。

彼らは、自分で、学校に行くことに意味を見出すことができたみたい。

これまでの彼らの生活を考えると、本当にそれはものすごい変化で、本当に嬉しく思う。

 

一緒に勉強することを通して、彼らを勇気づけることが、私にできたと思う。

彼らがまた宿題を教えてほしいと言ってくれたから、それに間違いはないと思う。

でも彼らが勇気を持って学校という課題に立ち向かえるようになったことを、私自身の手柄だと思っている私がいることに気付いてしまった。

そう思うのはよくないね。

きっと色々なタイミングが重なって、彼らの準備が整ったんだ。

そういうことにしておこう。

 

彼らに向き合っているその瞬間は、私にできることをできる限り行えばいい。

今まで学んできたことを全て活かして、彼らの役に立てるように努めればいい。

でも、その場を離れたら、彼らに対して私にできることなんてないんだって思いたい。

そうやって、この私の人の役に立ちたいという期待、自己執着を手離せば、諦めれば、

私はまた新しく、次の瞬間に、目の前の彼らのために今できることを探し、精一杯できるから。

 

そうか、これは昨日のリディア・ジッヒャーのオンライン抄読会で学んだことだ。

幼い子どもは、誰もが自分は無力であると感じている。だからこそ、能力を手に入れられるように努力することができる、と。

アドラー心理学は価値判断というものをとても慎重に扱う。

無力である感じ、つまり劣等感だが、これは誰にでもあるもので、

この劣等感を悪いと判断することは、話をややこしくしてしまうと、今私は思う。

私はこの劣等感に向き合うことで、自分のクセを少し制御しやすくなる。

この劣等感を持っているからこそ、ある場面では私は何らかのストレンクスを発揮できたりもできるのだろう。

人間である限り持ち続けてしまう劣等感を、どのように使って、どのように付き合って生きていくか。考えるべきはそれなんだろうと思う。

 

 

私の劣等感は、おそらく、「役立たず、足手まとい」。

その反対側にある理想像、優越目標は、おそらく、「人に喜んでもらえるほど役に立つ」。

この私の優越目標は、貢献的で、協力的で、とても素敵に見えるけれど、

これを追求していくことが私の自己執着である。

私はメシア願望がくすぶりやすい人間である。

劣等感以上に、扱いに気をつけなければならないのが優越目標だと思う。

いわゆる優越コンプレックスが発動すると、それはきっと人間関係を悪化させるから。

 

この2年ぐらいで、私はずいぶん変化したと思う。

でも変化したのは、私が手慣れてきた手法を手離して別の手法を採用するという、手段・方法・対処行動の部分においてであって、

どうやら劣等感や優越目標など、パターンの方は根本的には変化していないようだ。

 

パターンの方の変化も若干はある。

それは、劣等感や優越目標を緩めるという変化だ。

例えば、先ほどあげた「役立たず・足手まとい」という私の劣等感の、良いところを考えることができるようになった。

役に立っているかどうかという判断は、私は、周りに委ねていることに気付いた。

私が役に立つかどうかを、私が判断しているのではない。

これは、社会に組みこまれ、適応的に生きようとしている表れだと思う。

また、相手にとって自分がどうなのかという視点があるということは、ある意味で相手への思いやりがあるとも言えると思う。

そういう風に思えると、「役立たず・足手まとい」という劣等感を持っている私について、

そんなに悪い人間でもないんじゃない、と思えるようになる。

 

 

 

とはいえ、自分は役立たずだなと実感すると、落ち込むことは落ち込むのである。

今朝、学校に行きたくないと泣く小学6年生の女の子の、話を聴こうと努めたが、

彼女は頑なに立ち尽くしていた。

お願いをすると、廊下ではなくて預かり室に移動してくれたし、落ち着いて泣き止んではくれたし、返事はしてくれたし、

彼女なりの協力はしてくれた。

彼女の環境を思うと、本当に大変そうで、そうでもして注目関心を引かなければ、この世界に所属できないと思い込んでいることもわかる。

そうやって不機嫌になることで、周りを動かしてVIP待遇を受けてきている。

私は、彼女が不機嫌でいることは別にかまわないので、(というかその不適切な行動にかまってはいけないと信じているので)、

意地を張っている彼女の側に椅子を持って来て、見上げながらしばらく座っていた。

私は彼女のために何ができるのかなと考えたけれど、わからなかった。

何に困っているのか、尋ねてみたけれど、答えはなかった。

差し当たり遅刻の連絡を学校に入れてくるね、と言って、事務室へ戻った。

 

それからも彼女は立ち尽くしていた。

身体が傾いてきた。せめて座ればいいのに。

でもそうやって意地を張り続けられるところは、良いところでもあると思うよ。

不器用だなって思うけど。それはあなたの強みだと思うよ。

そんな風に思いながら、彼女をそっとしていた。

 

そのまま20分ほど経っただろうか。

ベテランのお姉さん職員さんが出勤してこられて、彼女のところに行ってきますね、と言って側へ行かれた。

すぐに笑い声が聞こえてきた。

ふたりでカーペットに座って、おしゃべりをしながら木のブロックで遊び始めた。

そして20分ほど経って、お姉さん職員さんが事務室に入ってきた。

「今日は学校休むそうです。お母さんに連絡しますね。」

それからもしばらくお姉さん職員さんは彼女と遊んで、

「Mさん、そろそろ上がれそうなので、後でお部屋まで行くように声かけてあげてください。」と、その後は私が引き継いだ。

 

このお姉さん職員さんの対応で、多分私はさらに劣等の位置に落ちた。

機嫌よくさせることが勇気づけではないと思う。

彼女はこのことで、何を学んだだろうか。

不機嫌にしていたら、周りは私に気をつかってVIP待遇してくれるっていう信念を、強めたのではないだろうか。

私は、彼女が自分の機嫌と、自分の行動を自分で決めることを、勇気づけたいと思っていた。

でもそれは私の対応では叶わなかったし、

その後のお姉さんの対応でも、私の願いとはかけ離れた方向へ事態は動いた。

 

そして、ここが一番のポイントかもしれないのだけれど、

ああ、さすがベテランさんね、お姉さん職員さんに対応してもらって良かったわ、という空気が事務室内に流れたことである。

そう、私は「役立たず」だった。

私の理想とすることと、ここで理想とされることは、かけ離れているかもしれない。

私が理想とすることを実現しようと努めるなら、できの悪い職員でいることを選ばなければならない。

そうね、それでいい。

私は、彼女の「役に立ちたい」から。彼女が自分の課題に自分で取り組めるよう、勇気づけていきたいから。

それは、彼女の喜ぶことではないかもしれないけれど。

それは、職員さんたちの多くが望んでいることではないかもしれないけれど。

ただ、この職場の良いところは、私が一生懸命仕事をしていることは誰もが認めてくださり、その方針は基本的には私に任せてくださるところだ。

 

しばらくして、ブロックを片付けている彼女のところへ行った。

小さなブロックを、丁寧に丁寧に、箱に敷き詰めて片付けようとしていた。

「わあ、綺麗にしまっているね。ジグソーパズルみたい。」

「うん。難しい 笑」笑顔で返事をしてくれた。

彼女の側に座って、散らばっているブロックを組み立てたり、箱に入れたりしながらおしゃべりした。

「難しいね。Rちゃんだったら『あきらめ入ってきた〜』って言いそう。」

「ふふっ 笑 そうだね、Rちゃんすぐにあきらめるからね。」

「あきらめの良い、あっさりしたところがRちゃんの良いところ。」

「そうだね。」

「Sちゃんは、あきらめないね。粘り強いよね。」

「うん。」

「それがSちゃんの良いところ。」

「ふふっ 笑」

私が意地っ張りなあなたを素敵だと思っていること、伝えることができた。

どうか、たくましく生きていってほしい。

 

片付け終わって、他のおもちゃも片付けてくれた後、黙ってランドセルを背負って、手提げを持った。

「ひとりで上がる?私がついて行った方がいい?」

「ついてきて。」

「いいよ。」

怒っているお母さんが部屋に入れてくれない可能性がある。でも職員がついていれば、その事態は防ぐことができる。

彼女のことを思うと、お姉さん職員さんと楽しく過ごせたわずかな時間は、彼女にとってとても貴重なものだっただろうなと思える。

みんな、自分にできる限りのことをしようと努めている。

 

 

 

何もかも、思い通りにならない。

当然だ。こんな施設に勤めているのだもの。

どの人も、おそろしく勇気がくじかれている。

そして支援という名の甘やかしが、人々を包んでいる。

おそらくそれが、人々が課題に向き合う勇気をさらに奪っている。

この環境の中で妖精くんとNくんが劇的な変化を遂げたことの方が、奇跡的なのだ。

もっとも彼らにしたって、いつまでこの調子が続くかはわからない。

私は役立たずでしかいられないのだ。

そうであるなら、彼らの役に立てるような素敵な自分をあきらめて、

毎日毎日、少しでも役に立てるように彼らに向き合っていこう。