東(ひむがし)の野に炎(かげろい)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ
6時過ぎに夜勤を終え、西へ向かう帰路につくと
背後に曙が広がり、正面に白い月が見えた。
692年の明け方に見えたのはこの空だったのだろうかと、人気のない交差点で足を止めた。
劇的な紅い空は、私が眠ろうとする頃には白けた薄い青に変わってしまっていた。
朝焼けの色が変わっていくのを長男と一緒に眺めた日のことを思い出した。
丹後の自助グループが主催するアドラー心理学の勉強合宿の明け方だった。
長男とは、(次男とも、)同じ景色を眺めて、同じ物語を共有し、そのことについて語り合うことができる。
それはあまりにあまりに幸せなことだと感じる。
日々を淡々と送っている。
生活していくのにいっぱいいっぱいの人たちと共に、そのいっぱいいっぱいの生活を回している。
大いなる時間潰しをしている。
最近はどうも沈んでいる。
この施設が利用者さんたちにとって必要な役目であることはよくわかっているが、
子どもたちが安全に、そして少しばかりは未来を切り拓いていく力を伸ばして、育っていくことができるのだとも思うが、
おそらく私のこの沈んだ気持ちは、利用者さんたちの境遇や施設の存在とはまた違ったところに関係しているのだろう。
食べるために生き、食べるために働き、働き疲れた余暇を娯楽の消費に使う
そんな味気なく回転する生活が、施設退所後の自立した望ましい姿であることに
私はうんざりしてしまうのだ。
人々が描くより良い生活は、食べ物に困らず、より安楽に、より安定的にお金を手に入れることのように思えてしまって。
私がそう思ってしまっているだけなのかもしれないけれど。
☆☆☆☆☆
私はあまりに沈んでいるのだろう、久しぶりに本屋で本を手に取った。
気になっていた作家、原田マハの本。
読みたいと思っていた本はなかったけれど、『まぐだら屋のマリア』という本を見つけた。
寂しい夜を、夢中になって忘れることができた。
ただ、これはこの著者に限ったことではないのだけど、現代の作家はやはり部分部分で詰めが甘いように思えてしまう。
私が読み手として成長したからなのかもしれないけれど。
ヘルマンヘッセ とか昔話(メルヘン)と比較してしまっては気の毒か。
他に読んだのは、西原理恵子の『この世でいちばん大事な「カネ」の話』。
この本は西原理恵子の半自叙伝だ。
私の勤める施設などの福祉の網の目からもこぼれ落ちてしまうような人々についての描写が、
以前読んだときとは違って私に近づいてきたことを感じた。
しかし、意図したわけではないけれど、まぐだら屋にしても西原理恵子の本書にしても、
虐待を受けた子どもについて、その子たちのその後についてが基調になっている本を読んでしまった。
そういう人たちと日常的に接するようになった私は、嘘つきである西原理恵子の書いていることの中にある、真実の手触りを感じるようになった。
まぐだら屋の方は、その部分が作り物めいていると感じてしまった。
図書館で借りていた『セルフ・ネグレクトのアセスメントとケア』も読み終えた。
こちらは支援職向けの専門書。
多くの事例が、私に身近に感じられた。
支援を拒否する人々が多くいて、訪問して関係を作っていくことの難しさが熱を込めて書かれてあった。
入所施設に勤めているということの利点を実感した。
利用者さんたちは、私たちの目の届くところにいるのだ。無理矢理にでも、コンタクトを取ることができる。
ゴミ屋敷に捜索に出かけなければならないほどの重労働はない。
支援職のバーンアウトについても書かれてあった。
現場の視点も手に入れた私は、うがった見方ではなく、興味深く読めるようになっていた。
私はそもそもバーンしていないので、バーンアウトの危険性はないように思った。
それから、安野光雅の『君は大丈夫か ZEROより愛をこめて』。
吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』のオマージュである。
何度読んでも、素晴らしいなと思う。
もっと文学や人生を学びたいなと思える。
子どもたちに1冊だけ本を勧めるとするなら、この本を選ぶかもしれない。
安野光雅も、ベイトソンと同じようなところに到達しているように思う。
地と図。情報。言葉としては使われていないが、プレローマとクレアトゥーラの2つの世界についても。
好みの問題なのだろうと片隅に追いやっていたけれど
あらためて、人が生きるためには本が必要だと思った。
本を読むためには字が読めなければならない。
本を読むためには文が読めなければならない。
本を読むためには文脈が読めなければならない。
本から学ぶためには自分の人生を生きなければならない。
そうやって人間らしく生きていくためには、
インスタント食品とスナック菓子とジュースとテレビとゲームとSNSだけで構成されている生活ではいけないと私は思う。
学校へ行けなくて、他に行く場所もなくて、気の向いたときに職員と少しお喋りをする、
それが彼らにとって本当にわずかな社会との接点であると知ったから、
そのコミュニケーション手段がゲームであったりテレビであることも、とても必要なことであるとわかったけれど、
なんて我々の世界は貧しいんだろう。
小さい子どもたちとは、木や草や花の話、虫の話、雨の話風の話、目に見えるもの肌に触れるもの、
それからもっと幼い子どもたちとは、絵本を通して
私たちの周りの豊かに広がる世界について、話ができるけれど。
でも、かろうじて。
幼い子どもたちの世界もゲームとアニメとYouTubeに染まっている。
☆☆☆☆☆
私は特に中高生の若者たちに対して、明るい気持ちを抱けないでいるのだろう。
生活の安定が手に入れられたところで、人生の豊かさは手に入れられない。
大人は成績のことばかり。
輝くような将来を描けることもなく、自分に何ができるかもわからない。
稼ぐ手段として何か資格を取れる進路を選ぼうか。さして興味はないけれど。
親しい友だちがいるわけでもない。
この荒涼とした時間を、どうやって進んでいけばいい?
…
私がそのような状況にあれば、それは、この檻のような場所から逃げ出したいと思うかもしれない。
けれど逃げたところでどこへ行くという当てもない。
だから何度脱走してみても、すぐに見つけられてしまうんだよね。
「なんで学校に行かないんだろう。病気でもないのに。危機感持ってないのかしら。信じられない。」
周りの大人のそんな視線が、漏れ聞こえる声が、あなたをより孤独にしているように感じる。
そんな中で、私にできることは?
必要な内線や訪室をする。いつも変わらない穏やかな態度で。
「お薬持ってきました〜。飲めそう?」
反応がなくても、しばらく扉の前で待つ。
もう、こちらから扉を開けることはやめることにした。
他の熱意溢れる職員さんたちが「入ってこんで!」と言うのを無視して部屋の奥まで入っていくから、権力争いに突入しているのをよく見る。
業務遂行か関係性の維持か、迷うところだったが、
関係性が悪くなれば、絶対に業務は遂行できないと私は結論づけた。
5分ほどしても扉が開かなければ、「一旦帰りますね〜」と撤退するようにした。
でも、そういえばこの1ヶ月は、たいてい2分も待てば扉が開くようになった。
無言で、無表情で、手を出してくれる。
時には、「ありがと」と言ってくれることもある。
たまに、微かな笑顔で会釈してくれることもある。
ある日は、顔を扉で隠して、手だけがにゅっと突き出された。
「どうぞ」と私は笑顔で手渡す。「ここで待ってるね。」と言う。
扉が閉まり、しばらくして、空の薬袋を入れたケースを
たいていの場合、無言で返してくれる。
「飲めたね。よかった。じゃあ、失礼しまーす。」
扉が閉まり、背後で鍵をかける音がする。
私は、バカなことをしていると思う。
私は、ほんとうは、あの子のためにできることをしてあげたいんだ。
話を聴いたり、勉強を見てあげたり、いつかのように散歩に出かけたり。
でも彼女は私を必要とはしていない。
事務室に、お薬飲めました!と報告に帰ると
「え?すごい!」と拍手されることが増えた。
私は彼女と権力争いにはなっていない。だから、薬を飲んでくれる確率が高いのだ。
でも、彼女の調子がとても良いとき、楽しくおしゃべりしている相手は、権力争いになることの多いお姉さん職員さんたちなのだ。
彼女のことを思うからこそ、怒ったりイラついたり、あれこれ提案したり、褒めたりなだめたり。
お姉さん職員さんたちが様々に働きかけてくれていることを、彼女はわかっている。
そうね、そういう世界なんだろう。
感情的に交わり合う世界。
私は、やっぱり、その世界に浸ることはできないな。
だから、いつまでもバカなことをし続けよう。
でもこうやって言葉にしてみて、彼女が私に陰性感情をぶつけることがなくなったことに気づけた。
2ヶ月前には、「誰が開けていいって言った?」って睨まれたんだった。
彼女がどんな状態であっても、全く変わらず彼女の扉をノックし続ける存在がいるということ、
ただそれだけ、学んでもらえたら嬉しい。
バカをやり切ろうと思う。
「職員は召使いじゃないし!」
「これだけ言ってるのに、なんで薬飲まないんだ!」
と、彼女だけではなく、こちらの支援を受け入れない人たちに対する本音を漏らす職員さんたちに、
「Mさんはよくイライラしないでいられますねー」とよく言われる。
あははと笑うだけにしている。
多分私がバカでいることは、良いことなのだろうと感じている。
本音を言えば、私の陰性感情が動くのは、職員が陰性感情を使って利用者さんに対応しているのを見聞きする時だ。
でもそれは熱意や愛情から湧いてくるものであると私は思っているから、
それではうまくいかないなと悲しく思っている。
でもそのことを上手に伝える術を、私はまだ持っていないと思うので、
結局そういう面倒なこと全て、私があははと笑って淡々と業務をこなすことに徹することで、免れているのである。
ある意味、ペルソナを上手に使っているのかもしれない。
良い本を読んでほしいと思う。
子どもたちも、若者たちも、職員たちも。
万葉集でもいい。(それこそ有り得ないけれど。)
美しい物語を共有できたら、どれほど幸せかと思う。
そんな理想が、あまりにあまりに果てしなく遠いことがわかってきて、
優越性の追求からは降りれそうである。
だから私はバーンアウトはしないだろう。